日記:10月28日🌿金曜日随想🔥徒然草とともに(31)

 窓の外に薄雲のひろがっている空を眺めながら、そう言えば、法師の草紙を繰り返し読むにつけ、身辺雑事はおろか、季節の移ろい、暑さ、寒さ、日々移りゆく世の噂などのコメントは、あまり筆にしていないと思い、女性の日記物語とは異なり、プライバシーはがっちり守っている、と言う感想も、笑ってはいけないかもしれないが、抱いた。
 徒然はわかるとしても、筆をとっている法師自身の私生活、日常の暮らしぶりはどんな風だったのかは、ちっとも掴めない。訊いてみたところで”普通に暮らしてました”とあっさり返されるだけだろう、と考えた。都の宮廷近くに住み、世の動きや、噂に疎いはずはなかったと思うが、ただ「何事も古き世のみぞ慕はしき」と、気ままな読書に没頭
”つれづれわぶる人(退屈だと言ってぼやく人)は、いかなる心ならん(なぜそんな気分になるんだろう?)煩わしいこともなく、ただひとりでいることこそよいのに”と述べて、ひとり、くつろいでいるのをよしとしている。(75段)これも、今風に言えば、実にクールではないか。
 この考えは、ほかにも、随処にみられる。どんな事情があろうと、”法師は人に疎いのがいい”(76段)と言い切り、仏道修行を願うというのは、ほかでもない、閑暇のある身になって、世の中のことは心に懸けないのを第一の道とする、と、言うのが、当時流布していた一言芳談とかいう法話集から、心に合って5話ばかり書き写したという言葉のなかのひとつで、兼好法師の心情が、そぞろうかがえるくだりでもある。
 神佛でさえ救えない乱世の世、教養高く、ものごとほの理非を見分ける鋭い頭脳をもちつつも、下級の一職員として、すべて静かに眺めるしかなかったのであろうか、とも考えたりする。


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