徒然草をひもといて 5章⑰167段、168段

 167段、やっとここまで辿りついた、とくに注目する話ではないかも、という気もするけれども、始めた限り、法師の徒然につきあうことにして、166段が、人が営むわざのほとんどが、春の日に、たちまち溶けてゆく雪仏を作るようなもの、という、ひどく否定的な人生観を述べた段に続いてこれもやや否定的と言えるかもしれない。そして、こんどの矛先は、”一道に携わる人”に向けられている。そういう人が、あらぬ道、つまり自分の専門ではない道に励んでいる人の仕事場に来て、「あーあ、これが、私がやってることなら、こんな風に傍観していないんだが・・」なんて口に出したり、心中ひそかに思っている、というのは、よくあることだけれど、これは実にみっともないことだ。自分の知らない道を羨ましいと思うなら、素直に「ああ、羨ましいなあ。どうして習っとかなかったんだろう」と言えばよかろう。
 自分の知識をもち出して、人と競争するのは角のある獣が、角を傾け、牙のある獣が、牙をむき出して、相手に噛みついたりするのと同じ類いのことである。という意見で、そのあと、「人としては、善に誇らず、物と争はざるを徳とす」と、法師がこれまでも折にふれ、持ち出している持論をのべる。”善に誇らず”はキリストも説いているし、仏教でも、根本道義としていることであろう。ただし、”他にまさることのあるは大きなる失なり”と述べ、品の高さ、すぐれた才芸、先祖の誉れ、などなど、”人にまされり”、と思える人は、たとえ言葉に出して言わなくとも、”内心にそこばくの咎あり”、とまで言う。
 わたしはこれを読むと、聖書のマタイ伝、5章、有名なイエスの「山上の垂訓」と呼ばれている教え「幸いなるかな、心の貧しい者
・・・」ではじまる数章に及ぶ訓戒を想起する。
 時と世界が異なるとはいえ、この法師の教えは、ほぼ、同じ方向に向いている、と思うのである。たとえ、心の内ひそかに、人にすぐれていると思う誇り、争う気持ち、見下す気持ち、があれば、それらは、今すぐすべて捨て去れ、と勧める。
 これは、イエスのように、神の前に、清い心をもて、というのではないにしても、ただ、世にあって、愚かしく見え、人にも非難され、災いを招くのは、すべてこうした慢心による、と戒めているだけだろうか?
 いわば、一道に、真に通じている人は、”みずからあきらかに、その非を知るゆえに、志、常に満たずして(つまり心貧しいゆえに)”ついに物にほこることなし”と喝破している、と思うのである。

 そして、168段にゆくと、今度は、”一事にすぐれたる才ありたる老人”に矛先が向く。この人亡きあとは誰に教わろうか、と弟子たちには言われるような人は、長生きしているのも無駄ではないだろう。とはいうものの、それも心身にいささかも衰えたところがないと、一生これで明け暮れたんだな、と味気なく思われる。と厳しい言葉を投げかける。そういう老人も「もう忘れてしまいました」という方が、つまり我欲を捨て去るほうがいい。という考え方である。
 だいたい知っていても、やたらに話しまくるのは、云うほど才がないんではないかと思えてくるし、自然に間違いを犯すこともあるだろう。
 「はっきりしたことはわかりません」と云ってる方が、かえってその道の大家とも思えない謙虚な態度に見える。まして知らないことを、したり顔に、年相応なので反発すこともできにくい人が、云って聞かせたりするとき「そうではない」と思いながら、聞いているのはやりきれない。としめくくる。
 あくまでも地上のざわめきが背景になっているとはいえ、法師は内心、世を眺め、つくづくみほとけの心はそういうものではない、と言いたいのではないかと、思われてくるのである。  

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