徒然草をひもといて 4章 (23) 130段 ものに争わず、おのれをまげて… 

 人と争わず,自分の考えを抑えて、というより、まげてでも人の意見に従い…、
 どういうこと?
 我が身を後にして、人を先にするにはしかず?。
するにはしかず、なんていわれても…なかなかそうはいかないのでは?
 註によると、鎌倉末期に、あらたに熱心に講読されはじめた孟子の語録や、その他の儒教古典の断章から取り入れた意見と思われるが、孟子もその頃は、まだとりいれられたばかりで、自己流解釈が当時はあり得たらしいから、兼好法師も、このあと述べようと思う彼自身の意見、つまりあらゆる競技を批判する文のまくらに、このくだりをあてはめて使ってみたのかもしれない。
 しかし、わざと負けて、人をよろこばせるのでは、遊びの面白さがないが、勝って相手に残念な思いをさせて、満足するのも道義にぞむく。というなら、いったいどうすればいいの?ということにもなる。さらに仲睦まじくたわむれるにしても、ひとをペテンにかけて、自分のほうが知恵があることを面白がる。これも失礼な話で、よく酒宴の席での、からかいに端を発して、いつまでも消えない恨みを残した例も多い、という。これもひとえに競争を好むことによる弊害だ、と法師は述べたてる。
 では、いったいどうすればいいというのか?
 法師はいう。じつは、ひと読みしただけでは、いつもの持論かと思えるが、実はこの学問ということばには、ひとひねり違う奥があり、真にそれを達成するのは、なかなかむづかしいかもしれないからである。まず、
 「人にまさろうと思うならば、ただ学問して、その智をひとよりまさっていると思うのがよい」
 ちょっと、それなら、やっぱりそれも競争ではないの?などと早まってはならない。儒教の、道を学ぶということは、ただの学問とは違う道すじとなる。
 まず、ひたすら学問に励めば「善に、ほこらず(顔回のごとく)輩(ともがら)にあらそふべからず」ということを知るからだ、というが、この場合の善とは、本人の持つ長所とか、もろもろのよき資質のことを意味しているようだ。   そして高い地位の職も辞退し、大きな利益も捨てるのは、ただ学問の力によるのだ。という結びとなるのである。

 


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