39:一茎の葦;パリからウイーンへ

 どちらかというと、内向きで、観念的にものごとを捉え、ひたすら追求していきがちのわたしにくらべ、高橋たか子もたいそう内向け的人間ではあったが(それについては、彼女がこの後1975年ころに、婦人公論に「私の鈍感さ」という名目でコメントを書き、のちに「記憶の冥さ」という本にまとめた随想のなかにはっきり書いている)そして、かくいう私も、実はたいそう鈍感な人間であることを、しばしば自認させられている。

 ともあれ、当時、すでに作品をいくつか世に出し、作家としの地歩を固めつつあったものの、2度目のヨーロッパ巡りで、生得のすぐれた感性で、理屈抜きですべてを凝視し、こころのなかで映し直し、無限につなげていこうとしはじめて、もがいていたのであろうと思う。 当時のパリ、モンマルトルの街角の絵葉書があるので、ここに移しておこう。小さくすることができなくて、添付したそのままのサイズだが・・・。

 パリを去る前に、高橋さんは、わたしへのちょっとしたサービスとして、当時評判だったギリシャ生まれのシャンソン歌手ジョルジュ・ムスタキが、モンマルトルの劇場で開いていた演奏会のチケットを手配してくれた。わたしが、彼にいささかはまっていることを知っていたからである。わたしたちの席は、まさに舞台のかぶりつきで、かれはギターを爪弾きながら、「私の孤独」をはじめとして、ほとんど全曲、一晩かかりで、例のくらーい調子で歌い上げた。

 そして私たちは、雪の舞うオーストリアに向かう。ハイリゲンクロイツを訪れ、さらに「子供の村」という古い孤児院をも見学し、その後プラハまで足を伸ばそうとしたのだが、ビザの取得に手間がかかる、ということで、高橋さんは風邪をひいてウイーンの宿で寝込むことになり、プラハ行きは取りやめになった。

 ★下の絵葉書写真で当時のモンマルトルの雰囲気を感じ取ってもらえれば、と思う


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