日記:10月25日火曜日薄曇り🥀随想徒然草とともに(29)

 今日は、第190段”妻(め)というものこそ、をのこの持つまじきものなれ”説を拝聴ではなく、拝読することにしようと思う。
 乱世の時代とはいえ、人口比率からいっても、おそらく勝ち目のないこうした論議に、颯爽と斬り込んで溜飲を下げようとするからには、勝ち負けなど頓着しない魂胆というか、確信あってのことと思う。「いつもひとりずみにて」などと聞けば、奥床しく爽やか、などと書きつけているのだから、手におえない、と一読読み捨てるのが、常識かも知れないが、ちょっと立ち止まり、都の片隅の庵で、秋風の音を聴きながら、ひとり筆をとっている法師の姿など思いいかべながら、声なき声に耳を傾けてみよう。
 注によると、愛読する源氏物語、若紫の巻に「世に心の染まぬにやあらむ、ひとりずみにて云々」という文がある、というご指摘があり、多分法師の心境も、そんなところ、つまり、世が心染まぬものなので、この一文に共感できる、ということだろうか。「誰それの婿になった」とか、「これこれしかじかの女を迎えて一緒に住んでいる」など聞くと、すっかり幻滅してしまう。どうせ、大したこともない女を、よいと思いこんで、添うてるんだろうと推し量るし、よい女なら、さぞかし男を、竹取物語のセリフじゃないが、”わが佛”、と祭り上げて守ってるんだろうが、言ってみれば、それだけの話、と切り棄てる。まして家のなかを取り仕切る女はもっと興醒め、子供ができて大事に可愛がってるやなんて鬱陶しい。男が亡くなり尼になり、老いぼれた姿をさらすとは、夫亡き後まで、あさましい、と締めくくる。
 しかしながら、女なんか嫌いで顔を見たくもない!というわけではないのが、本論の面白いところで、たとえどんな女でも、一緒に朝晩暮していれば、気が合わず憎らしくなるだろうし、中途半端になるだけ、離れて暮らし、ときどき通うのが、年月経っても絶えない仲となるだろうし、たまにやってきて、っ泊まっていったりするなどは、新鮮でしょうが…、という御提言なのだが、いかがだろうか?
一昔まえ、日本で”亭主達者で留守がいい”というコマーシャルがブームになったのを、図らずも思い出してしまった。その時、歌いながら踊っていた演者のおばさまたちの、なんと生き生き、楽しげだったことか!

事情は逆転しているけれども、兼好説は、男女を問わず、根源的には、現代も生きているのではないだろうか?。一人居は、たしかに、心くつろぐものである。法師ほどに厳しくきめつけなくとも、所詮、人はひとりなのだから。これが人間の業というものなのかも知れない、。





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