徒然草をひもとく 4章 (20)125段、

 佛式の弔いの法事は、日本でもかつては、没後49日で一応忌明けとなるまで、通夜から、葬式、その年の夏、または翌年の夏の初盆、一周忌、3周忌、7回忌とじつに丁寧に執り行われていた。子供の頃は、そのたびに親類縁者が集まり、儀式のあとは大抵それぞれの家で会食となった。お膳という便利なものがあるので、テーブルは要らない。8畳ていどの座敷があれば十分で、子沢山の時代に、そうした儀式に、親たちに連れられて集まるのは、子供たちにとって忘れられない思い出で、愉しみでもあった。
 第125段の前半の話は、そうした佛式葬儀の行事として、49日の忌明けに、ある人を導師に招いて説法を聴いたときの話である。そして、その説法が感動的で、皆涙を流し「今日はいつもよりことに尊く感じました」と有り難がっていた話のおちである。皆が心に沁みて感動を味わい、それを口にしていたとき、その返事に「いずれれにしましても、あれほど唐(から)の狗(いぬ)ににていますからにははねぇ(やはり値打ちがあるのでありましょう)」という返事がかえってきて、感動もさめはてて、おかしかった、と言うのである。そして、こんな褒め方があるものか、とやんわりたしなめてはいるが、法師自身も多少共感していたのかも。唐犬は当時かなり高価で珍重されていたとはいえ、またこ導師の風貌がそれに似ていたのかもしれないにしても、等価値におくような褒め方はやはりおかしい。
 唐犬は、以前はチンとよばれて、、愛玩犬としてよく飼われていた愛嬌のある顔だちの小型犬だった。今は洋犬におされて、あまりみかけなくなったが。
 心に響く法話も、素直に受け留められるかどうかは、それぞれの資質は勿論だが、環境や体験にもよるのは当然なのは、いつの時代も変わらない。続く話も、やはりなにかを論じるにしても、筋道のとおらないたとえを持ち出すことを戒めたものなのだろう。よくあることなのだが。


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