徒然草とともに 章 ㉕

 89段は、題して、猫また騒動、ある遁世僧が当時ちまたでさかんに行われていた連歌の集いの帰りに、こうむったとんだ失敗談を描いた話なのだが、滑稽な文面の底には、兼好の苦い慨嘆と批判が、そっと滑り込ませている、と思われる話である。

 連歌は、平安時代から鎌倉時代にかけて、公卿や遁世僧ばかりでなく、武士や庶民のあいだでも盛んに嗜まれた遊びで、和歌の5.7.5.7.7の定型詩型で、上の5.7.5に、下の7.7を、復数の人たちがつけてたのしむ詩作の集い、世界でもおそらく日本のみの文學遊びで、公卿社会を中心に、やがて、武士階級や庶民にまで、盛んにひろまり、月や花を主題とすることが多く、内容や思想もあまり重視されず、詩としての雰囲気を愉しみ、のちに俳諧の連句につながっていくのであるが、兼好の時代には、それが賭け事の遊びになっていたようである。

さて、話は、当時京で、だれがいいだしたのか
「奥山に猫またというもの有りて、人を喰う」という話がひろがり「いや山でなくともここらでも、猫が年功をつむと、猫またになって人を喰うことがありますぞ」と。それをきいた何阿弥陀仏とかいう連歌グループで楽しんでいた上京に住んでいた遁世僧、いつも独り歩きする身なので、気をつけなければ、と、びくびくしていたところ、或日の夜更けに連歌の会からひとりで帰ってきたら、いきなり、猫またが足元に来たと思うと、かきついて、首のあたりを喰おうとするではないか。肝をつぶし、防ごうにも、力もなく、足も立たず、道端の小川に転げ落ち「猫またよや、猫またよや」と叫んだので、家々からひとびとが松明などをともして駆けつけ、よく見ると、顔見知りの法師、「こはいかに」と川の中から抱き起こした。懐にしていた賭けの賞品の扇子も、小箱も水の中、法師は危うい命を助かったと、ほうほうの体で家に入っていった。猫またの正体は、実は法師の飼い犬だった。という結び、


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