徒然草をひもといて 5章㉛190段     妻(め)というものこそ、・・・・

 ”妻(目)というものこそ・・・それこそ”得がたきもの有難きもの?持ちたきもの?楽しみなもの?などと早とちりして、勘違いし、女たるものうぬぼれてはなりません。法師は甘い方ではないんです。耳を傾けてみましょう。
 これに続く言の葉は”おのこ(男子)の持つまじきものなれ”であります。
 そして「いつもひとりずみにて」などと聞くのこそ奥ゆかしい、などと憎たらしい所感をお述べになり、「誰がしかの婿になりまして」とか「こういう女を迎え入れて同棲している」などと聞くと、無性に心劣り、つまり、がっかり幻滅させられる‥。と書き、幻滅するのは勝手ですが、「大したこともない女を、よしと思い定めてこそ添いいたらめ、といやしくも推し量られ」ここの文のおしまいのほうは、小川先生訳によれば、「その男も取るに足らないように想像される」となり、随分手厳しい女性蔑視論ともなる。さらに、それに続いて、万一”よき女”の場合は、相手の男をいとしいものと思い「あが仏」とばかり奉り、守っているのであろう。言って見ればそれしきのことと思える。まして家の内をとりしきった女などは”いとくちおし”=はなはだ感心しない(訳)とまで書き連ねる。183段で、障子の破れを繕う松下禅尼の行いを❞いとありがたかりけり❞と称揚しているかと思えば、こんな論議も飛び出すのがおもしろいところといえばいえぬこともない。徒然なるままに、こころにうかぶ”よしなしごと”を書きつらねるのはいいけれども、…という気にならぬでもない。閑話休題。次に進むと、
 ❞子など出で来て❞大切に愛して養育しているのお見ると、うっとうしくなる。
 男が亡くなってのち尼なんぞになって年寄った様子など見ると亡きあと迄あさましい。と続く。  さて、こうして散々好き放題に結婚否定論を繰り広げたあと、やおら、独自のおひとりさま賛歌を開陳する。
まず、”どんな女でも、明け暮れ共に暮らしていると、ひどく気に入らないことも出てきて、憎たらしくなるだろう、これは女の為にも中途半端なことになるばかり、それなら、いっそよそながら離れて暮らし、時々通って暮らすようにすれば、長い年月が経っても絶えない関係になるだろう。かりそめに尋ねてきて泊って行ったりするのは、新鮮な感じがするに違いない”という、はなはだ身勝手ながら、成熟して独り立ちできる男女の暮らしにおいては、ある意味理想論といえるかもしれない。
 ただしかし、子供うんぬんの点だけは人類の将来を考えても、決して賛成できる案とは言えない。                                                                                                                                                    


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?