徒然草とともに 2章 ㊸

 2020年春からnoteに投稿をはじめ、テーマごとに発表することを計画したのですが、昨年体調を崩して余儀なく中断、サポートして下さっていた方に申し訳なく残念に思っていました。
 幸い体調もようやく回復し、無理のない程度で読み書きをまた始めることにし、暮れから文庫版「徒然草」を手に丁寧な補注や現代語訳を参照しながら、いささかコメントを加えて書き留め、ようやく43回を重ねました。

 京都がみやこであった13世紀から14世紀、筆者吉田兼好は、卜占を業として宮仕えをしてきた家に生まれ、早い時期に出家遁世し、独り身で、京のどこに住んでいたのか、どのような人であったのか、確かな伝記資料は極めて少ないもの、歌人としても、能書家としても知られ、随想録に書き記した話題は豊富、ユーモアやぺイソスにも事欠かず、教養豊かな文人であったことは明らかです。こうして書き残した草紙は、幸い戦乱の世を超え紆余曲折を経て長短さまざま243段、貴重な古典として残りました。
  
 今夜、第52段に登場するのは、ひとりの仁和寺の老法師で、思考の柔軟性を欠いた頑なな思い込みが招いた残念な失敗談である。
 皇室の守護神でもある石清水八幡宮を”年寄るまで"拝まなかったことで”心憂く覚えて”あるとき思い立ち、当時はみやこからは桂川をくだり、宇治川に合流する舟で行くのが通常だったところを”ただひとり”ほぼ20キロばかりの道のりを徒歩で出かけた年老いた僧、目的の石清水八幡宮がある男山の麓にある極楽寺・高良大明神などを拝んで、これでおしまいと”心得て”帰ってきた。帰ってから,まわりの人に「年頃念願してきたことを果たしましたよ。聞きしに勝って尊いものでした。それにしても参った人々がみんなお山に登っていったのはなにごとがあったんでしょう?行って見たかったんですが、石清水八幡大明神に参拝することこそ本来の目的と思い、山までは見ませんでした」と言ったそうな、山上にこそ目的の石清水大明神が鎮座ましますことを知らずに・・
 些細なことにも案内役は必要なもの。と一人合点の思い込みをいましめた文がつけられた。
 

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