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日記:9月9日 金曜日 曇

 台風12号が近づいていると報じられている9月初めの夕方、小雨のなか、マンションの庭を散歩しました。一周すると私の足で20分、1600歩くらいになります。毎日だいたい一回は歩くことができるようになり、姿勢に気を配りながら、足踏みしめて歩いています。今度転倒したらお終いだと自分に言い聞かせながら、です。

 散歩のあいだ私が一番心を惹かれているのは、庭のあちらこちら至る処に自在に枝を伸ばし、葉を茂らせて一抱えは十分ある幹でどっしりと土地に根を下ろしている樹々の生命力あふれる姿です。樹木の名も十分知らない無智なのが残念ですが、葉を採集したり、姿をカメラに収めたりしていて、調べようと思っています。

 さてこのnoteで随想や小説をまた書きはじめるにあたって、まずは古人のひそみにならい、心に浮かぶよしなしごとを書いていくことに。といっても、実は兼好の巧みな口上に乗せられて、硯ならぬ無味乾燥なパソコンに向き合ってもおいそれと、都合よくよしなしごとなどうかんでくるわけもなし、とりあえず、この兼好法師を名乗る人物のプロフイールを垣間見ることから始めることにしました。

 徒然草の著者、吉田兼好、よしだと云うのは彼の先祖が、そのむかし、京の都の北東、吉田山にもうけられた吉田神社の神職を勤めていたからで、一族のもとの名は卜部といい、世々卜占の術で神事をを司る古代史族で、壱岐対馬あたりを拠点として、のちには日本古代の神事を預かり勢力を持っていたという事を知りました。

 時代が変わり、一族は京の神楽が岡に今もある吉田神社の神職となってこの神社の預かり職におさまり、神事を執り行う宗教的権威をもつことになります。吉田を名乗ったのは、この吉田神社預かり職という要職についたからだと伝えられていますが、代々名前に兼という字をつけるしきたりで、兼好という名もその一族のしるしというわけだったのでしょう。兼好は鎌倉時代も末、時代が南北朝の争いに揺れた1350年、京に生まれています。

 かれが卜部という家に生まれ、そういう苗字も持っていたという事は薄々知っていましたが、その卜部家というのが古代日本の神事を預かり、京でも重んじられていた家系という事を知ったのは、今更ながらわたしには興味深いことでした。


 

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