日記随想:徒然草とともに 2章 ⑦

 この世、あの世と、ひとの生きざまを、思いのまま、気ままに筆を走らせつつ、ひとの住まいの理想について思いを巡らせていた兼好法師の胸に浮かぶひとつの情景があった。ある年の神無月のことである、すでに初冬の肌寒い季節、とある山里に住む知人を訪ねることがあって出かけた法師、栗栖野(この地名は現在は特定出来ないらしいが、京都の北の方の荒涼とした野原であったろうと推定されている地)を通り過ぎたときのこと。”遥かなる苔の細道ふみ分けて”歩いて行くと、途中で、 ”心ぼそく住みなしたる庵”を見つけたのだった。
 
 立ち止まって、しばらく眺めていたが、散り敷いた木の葉に埋もれるような懸け樋から、ぽつり、ぽつりと落ちる雫の音のほかにはおとづれるものさえないような静寂、閼伽棚には、菊の花や紅葉の枝などが折り散らしてあるからには人が住んでいるのだろうと思い、こんなところでも、こうしてひとがすんでいるのだなあ、と感じ入って眺めていたところ、庭の奥の方に、大きな柑子の木があって、枝もたわわに実をつけているのが目にとまった。そしてそのまわりを、きびしく囲って誰も寄せ付けないようしてあるのをみて、急に興ざめし、この木さえなければよかったのに、と感じたのを思い出した。こんなな山里で一人侘び住まいする人にも、大事な実を盗まれては、という欲心が根ざすのか、と気落ちしたのだった。

 法師が描く世捨て人のイメージに、汚点がついたかの感じだが、ひとの世界はそうしたもの、なのかもしれない。

 次の段では、兼好師は、ひととひととのコミュニケーションの問題で独自の見解を展開する。日頃の体験をよく吟味し、対話の時の自分の心の反応も、じっくり観察したレポートみたいなもので、簡単ではあるが、いにしえ人とは思えない細やかな分析だ。
 まず全く気が合っておかしいことも、世のはかないことも、裏表なく言い合うのは、そういう人はめったにないと思うが、嬉しいはずだが、それでは一人でいるのと同じ気分になるのではないか。互いに、成程!と思ったり、いや私ははこう思う、と別の考えを述べて云い争ったりしたあげく、それもそうだなどと得心がゆくという親しい関係は、慰めになるだろう。
 しかし、実際にはよくあることだが、些細なことでも共感が得られない人とは、ありきたりの世間話はできても、まめやかな心の友とは、はるかに隔たりがあって侘しい、と。
 たしかに、と、うなずきながら読む。

 まめやかな心の友はなかなか得難く、孤独なこころをかかえた法師にとっては”ひとり灯のもとに文をひろげ、見ぬ世の人を友とするぞこよなう慰むわざなる”という心境でいる。第13段で法師が読んでいると紹介する数々の書は、当代最高レベルのくさぐさの文書。白楽天の閑居の詩にならい、読みふける詩文集や、博士の文粋、老荘思想etc、今の時代披露してもほとんど身近とは言えない最高の教養書で”いにしえのは、あわれなる(おもむき深い)こと多し”と満足を表明する。羨ましいような、気の毒なような境遇といえるかもしれないが、しかしこの時、かれはおそらく無上の喜びを感じていたに違いないと私は推察する。 

 


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