45:一茎の葦;グレン・グールドが愛読した夏目漱石「草枕」(三角の世界)①

 ”山路を登りながら、こう考えた”。一人の絵師、日本画工が、とかく煩わしい世をのがれ、ひたすら画の世界に、つまり芸の世界に浸り切りたいという願いで画材を求めて旅に出て、山路を登ってゆく。道の途中でまず考えた、というのが「草枕」の始まりである。

 この画工、生来物を考え抜かねば気が済まないたち、つまり、かれもまた、考える葦のひとりで、引き続いて、その独自の胸の裡を吐露してゆく。

 かくして世に名高い名文句が、このあと延々と紡ぎ出される。”智に働けば角が立つ、情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかく人の世は住みにくい云々”。

 そこで、筆者の胸に、この主人公の述懐そのまま、自らの意地を通し抜いた挙句、30歳ですべての演奏活動をやめてしまったグレン・グールドのさまざまな風変わりなエピソードが、浮かび上がる。今では伝説的に言い伝えられているものだが。”尋常ならざるステージマナー。・・アイロンのかかっていない燕尾服を着て、・・手袋をはめている。足を短く切り詰めた木製の折り畳み椅子(それはかれの初期の子供時代に、父親が作ってくれた手製の演奏用の椅子で、かれは生涯、演奏会には必ずそれ持参し、修理しながら使い続けた)に座り、ほとんど床に座っているのと変わらないような位置からピアノを弾く。鼻を鳴らし、声を出して歌い、ピアノと格闘しているかと思えば、ささやき、愛撫する”。

 1958年、ジョナサン・コットは、カーネギーホールで、ニューヨーク・フィルハーモニーとグールドが、シエーンベルクのピアノ協奏曲を演奏したとき、リハーサルに立ち会うことを許されたが、そのときかれが見たのは、”舞台の袖から現れたグールドは靴をはいておらず、靴下のまま、ほとんど滑るように歩いた。首にはマフラーを巻き、ポーランド・ウオーターの瓶を持参し、演奏前にお湯を入れた洗面器で15分ほど手を暖めていた。

 そして、コットは付け加える。”あれほど説得力のある生き生きとした演奏は今なお聞いたことがない”と。その後1960年には、また夏のニューヨークで、テレビ局との打ち合わせに現れたグールドは、相変わらず、外側から内側まで、いつもの極北の服装で固めていた”と、

「あれは変人だけど天才だよ」とあるアメリカの高名な指揮者が、共演したとき語ったという話もある。

 さて「草枕」のページに戻ると、”人の世が住みにくいからとからとて、越す国はあるまい”というわけで、”住みにくき世から、住みにくき煩いを引き抜いて、ありがたい世界をまのあたりに写すのが詩である、画である。あるは音楽と彫刻である”と続く。

 さらに、これに続く漱石の表現の絢爛たる美辞麗句の華麗さは、主人公の画工が、並々ならぬ漢詩文の達人で、俳諧も素人はだし、という設定で、到底私などにはついていけない漢字、漢詩文形容詞の羅列が延々と続く。ある程度推測はできても、書き写すことは不可能に近いしろものである。

 そこで、やはりこの主人公の絵師は、市井の俗人とは、学びのレベルが違う、と理解できた、というにとどめ、そもそも、「三角の世界」とは何ぞや、という肝心の部分に視点を移して締めくくることにしたい。

 原文では”世上幾多の芸術家は(日常の人としてはいざ知らず)…常人よりは愚である、気違いである”と決めつけたうえで、”してみると四角な世界から常識と名の付く、一角を摩滅して、三角のうちに住むのを芸術家と呼んでもよかろう。”という結論に達する。この点はいとも簡単な結論だが、原文ではこのあと、主人公の絵師は、さらに自説に蘊蓄を傾け、考えめぐらして、滔々とひとり論じることになる。でもそれはここでは省略させていただく。

 グールドは、この訳書に非常に感動し、生涯愛読し「20世紀小説の最高傑作」とまで評価し、1981年にはカナダ放送協会で、ラジオの特別朗読番組を作り、第1章を抜粋、15分間自ら朗読した。と伝えられている。

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