徒然草をひもとく 4章 (22)129段顔回は 

 儒教界きっての秀才、孔子が愛した高弟、顔回の志は、人に労を煩わさないことだった。これは、單純に迷惑をかけない、ということではなく、もう少し広い意味に解釈するへきことということを兼好法師が、受け止めているのは、あとにつづく文でよみとれる。 論語の言葉では、ここは、その前に、善に誇らず、という句がおかれている。そして、兼好法師はこの短く簡潔な教えを、広く人間社会の諸相にあてはめ、精神界にまでひろげてみせる。
 人を苦しめ、破壊したり、下層の民の意志でも曲げてはならない、また幼い子でも、脅かしたり、からかったり、ふざけて恥かしめたりして興じたりするのは、おとなにすれば、からかっているだけで、ほんとの事ではないからたいしたことない、と思っているかもしれないが、幼な心
には、身にしみて恐ろしく、恥ずかしく、情けない気持ちは切実であろう、と。
 これは法師自身の、もしかしたら幼児体験でもあったのではないかと思われるほど、こと細かで、しかも
現代でもつい最近まで、よくみられたことでもあるが、子供を悩まして面白がるなんて、”慈悲の心にあらず“と戒める。そして法師の筆は、さらに人間心理の深層に踏み込む。
 大人の喜び、怒り、悲しみ、楽しみなどは、実は虚妄であって実相とはいえない仮の現象とも言えるのに、皆がそれにこだわっているが、実は身を破るよりも、心を損なうほうが、もっと健康を損なう点では甚だしいのである、と説く。ここからの知見は、現代の心象心理学の分野にも繋がつているともいえる展開で“病を受くることも、多くは心より受く”と述べる。この言葉は、かつて日本の巷に流布していた「やまいは気から」、だから気をしっかり保っていれば吹き飛ばせる!というような軽々しい憶説などではなく、近代になってますます医学的に新しく立証されてきた知見といえる。もっとも「他から来ることは少し」というのは今のように、ウィルスがまん延する時代には、そのまま、受けとるわけにはいかないが、恥じおそれるときの冷や汗などは、薬でおさえられるものではないし、良い例として、最後に、有名な故事を例にあげている。
 約3世紀の昔、魏の明帝の凌🕸雲観、約75メートルの高さの額に字を書くことを命じられた能書家が、きいいあ籠に入れて吊り上げられ、恐怖で白髪になったためしもある。というもので、今ならビンとこない例かもしれないが、心象、またはストレスは決して無視できないことを、数世紀前に警告している、脱精神主義の冷徹なまなざしは、注目にあたいする。




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