37:一茎の葦;ミュンヘンのジルベール・ナハト

 今朝のnoteには夜来急変した東京の、というより日本中の気温差に驚かされ、身辺で平素から時々思っていることを短く書いた。そして続きは午後、昨日に続いてミュンヘンからヨーロッパに旧友の高橋たか子と共に旅行した遠い日のことを思い出しながら、昨年修道会のシスターが下さった彼女のエッセー集を読んでいるうちに、どうしようもなく気持ちが沈んできて、なにも書けなくなった。

 そのエツセーは「パリのコンサート」という題で、1,978年「ピアノの本」という雑誌に寄稿したものと「ミュンヘンの年末年始」という題で、1979年婦人公論に寄稿したものとである。ピアノの本の方は、昭和47年1月、パリの教会音楽を二人で聞いて回った時のもので、阪本という本名で書かれている「二人ともフランス文学をやり、ヨーロッパ精神に憧れ続けた人間であり・・・(ここでちょっとこだわると、私はヨーロッパ精神にただ憧れたわけではなく、かれらの構築した哲学や宗教にみられる真実へのあくなき探求とそれに沿って花開いた音楽や文学の堅固でぶれない美に感動していたわけで・・   )もう1篇では、わたしはSさんという仮名で書かれていて、もう少し詳しく書かれているのだが、Sさんという仮名なので、本を下さったシスターは気が付いていないようだった。

 それは、「今から七年前、四十六年の年末から、四十七年の年始にかけてを、私はミュンヘンですごした」とはじまる。そして「私が精神の深部で通じ合える数すくない女の友達のひとりであるSさんが、ご主人の留学で子供さんたちといっしょに滞在していたので、遊びに行ったのであった」という説明がついている。

 しかし実はあれらの日々、正直言って私の心はもうボロボロだった。しかし高橋さんと会っている間、私はそのことには一度も触れていない。そんなことは別の次元の話であったから、持ち出すまでもなかった。

 高橋さんは音楽に造詣が深く、特にバッハを偏愛していた。だから「音楽の国でバッハを聴きたいというのが私の目的であった」と書く。私も高橋さんも、子供のころからピアノを習っていたから、その点でも分かり合えたようだ。ミュンヘンについた日の夜は、私があらかじめ買っておいたチケットで、聖マタイ教会におけるバッハのクリスマス・オラトリオを聴きに行っている。

 そして、高橋さんが先に述べた南ドイツ、ローテンブルクやパート・メルケンハイムからの一人旅から帰ったのち、2,3の教会でミサ曲などを聴きまわり、大晦日は、いわゆるジルベスターナハト(シルバー・ナイト)で、聖ミカエルハイム教会のミサに出た。その夜のパイプオルガン奏者は、カール・リヒター、ふと見上げると、彼はオルガンを弾きつつ、ミサの指揮をもしていた。

 その前に、高橋さんにはもう一つドイツに来た目的があった。それは、かつてのバイエルン王国の王「狂王ルードウイッヒ二世への傾倒」による旅のことである。このバイエルン最後の悲運の王の死は、森鴎外の小説にも登場するが、ここバイエルン州では、当時いまだに根強い人気があり、南ドイツ式の訛りでいうと「ルードヴイックツヴォゥア」は子供たちの歴史の時間でも、教師たちに、重々しい発音で、言及されていた。

 そして、それはともかく、高橋さんの希望で、私たちも、かのノイ・シュバンシュタイン城見物に出かけたことは、先日も書いたが、彼女のエッセーによると、「あの狂気と浪漫主義とデカダンスを思うだけで、私の血がぞくっとしてきて、理由もわからず、妖しいパッションのとりことなってしまうのであった・・・」といい、「Sさんの家族と共に、アルプス山中の城を訪れ、華麗で俗悪で偏執狂的な美をまのあたりにした」と書いている。

 そして、彼女のワーグナーへの傾倒は変わらず、エッセーでは引き続き「彼(※ルードウイッヒ)が狂気のなかにあって耽溺して聴いたという楽劇を、ミュンヘンの劇場で聴いたりし」と書き残している。


 


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