徒然草とともに 3章 ㉑

 83段 これもまた日本人の、万事余韻を残す、とでもいうか、独特の潔さを示す逸話といえるかもしれない。
 竹林院入道左大臣殿、注によれば、西園寺公衛、四代続いて太政大臣になってきた名門の出でであるが「珍らしくもない、左大臣でやめておこう」と云って出家されてしまった。(かれのこの振舞については1,311年、四月25日出家。と、ちゃんと今も記録に残されている)
 そして洞院の左大臣実奏公も、やがてそれに共感されて、太政大臣の望みをもたれずに終わられた、というのであるが、これについて兼好法師は「亢龍(こうりゅう)の悔いあり(天に昇りつめた龍は後悔する)」という中国の故事をひきあいに、月は満ちては欠け、物は盛りにして衰える、よろずのことは、頂点に達して詰まれば、破れる近道となる。という注釈を加え、警句として、この二人の行状を、床しく賢明である、とたたえているのであるが、果たしてそうであろうか?
 当時の社会や政界全般にほ、社会奉仕の観念などはなく、自らの身をいさぎよく処す美意識が、主として讃えられていたようだ。老子も「功成り、名遂げて身を退く。天の道なり」と述べているらしい。

 第84段は、はるばるインドに渡り、佛典を持ち帰り漢訳し、今も佛教会最高の高僧のひとりとしてたたえられていて、物語「西遊記」などにも描かれる東晋時代の名僧のエピソードである。
 兼好の読書の博捜ぶりがうかがえる挿話でもあるかと思うが、この法顕三蔵がインドに渡ったとき、故郷の扇を見ては悲しみ、病に伏したときは中国食を欲しがられた、と聞いて「あれほどの人が、むげに気の弱さを、他国でお見せになったものだ」とある人が云ったところ、例の仁和寺の心蓮院の弘融僧都は「優しい人間味のある三蔵であることよ」と云った、これも法師らしくもなく、心憎いほど奥ゆかしい、と思ったと述べる。
 たとえ、高位の僧籍にあろうとも、そのこころには、つねにこうしたゆとりがほしい、というのが兼好の本心だったのだろう。

 85段のお説教を聴いてみよう。
人の心は素直ではないから、嘘いつわりもないことはない、と、のっけから手厳しい。けれども、たまには正直な人もないことはないだろう。素直ではないけれども、人が賢いのを見て羨ましく思うのは世の常である。だけど至って愚かなる人はたまたま賢い人を見て、その人を憎んだりする。
などと述べたてたうえ「大きな利益を得ようとして、小さい利益を受けずに辞退し、虚飾で名声を得ようとする」と誹謗する。
 しかし、現代ではこう云う例があるのかどうか、よくわからないが、最近は、悪もさまざまあり、組織化したりし、あまりにも巨大で、わけがわからない悪もある。
 
 それはさておき、法師によれば、賢人と心がけが違う人物は、自分の心が賢人と違っているので、こんな中傷をするのだが、これは最低の愚者で、なにをしてもう最低の愚かさは治らないし、偽ってでも小さな利益を捨てることできず、仮にも賢人を学ぶこともない。

 少々わかりにくいけれども、次に進むと、狂人の真似をして大路を走れば、狂人だ、悪人の真似だといって、人を殺せば、悪人だ,幻の名馬「き」を真似る馬は「き」の同類だ。舜を真似る政治家は舜のともがらである。とし、たとえ偽りであろうと、賢人を学ぼうとする人は賢人というべきであろう。としめくくる。
 ちょっと、じっくり考えてみよう,すぐにそうですか、という前にと思うくだりである。  
 

                                       

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