徒然草とともに 4章 ③ 103段 なぞなぞ作り「唐瓶子」


 徒然草を。ともに楽しむ気持で始めた随想、今回3章から4章へと、章を進めたのは、これまで同様特にわけあってのことではなく、50段程度のところで区切り、一応テーマの内容も変わった、とみれば、括っているだけ、強いて云えば、気になった段などを読み返したいとき、こうしておくと、いくらか便利かも、という程度なのでご了承下さい。
 ということで、4章③第103段、なぞなぞ作りで起きたハプニング、今も昔もクイズ好きな日本人の、からかい半分の、あえていえば、ちょっと軽い、いじめ話で、故事をからめ、少々込み入っているので、現代人には、多少ややこしい話ではある。
 舞台は、右京区嵯峨野、大覚寺、876年創建の真言宗の古刹で、後宇多上皇がここで院政をとられたことでも知られるが、ここに登場するのは、後宇多、後醍醐2帝の信任厚い医師(くすし)丹波忠守である。この時代、医師は六位格扱いで普通昇殿は許されないきまりだったが、かれは、異例の四位に昇進し、殿中に出入りを許されていて、その日も颯爽と、か、重々しく、か、出仕してきたのだが、そこで、なぞなぞ作りをたのしんでいた近習や貴族たちの餌食となった、という次第であった。当時の、格式や血統を重んじる宮廷事情が下敷きになっているうえ、平家物語の故事をふまえた含みは、よく知られた話にしても、このなぞなぞ作りの真意や、面白味を読み解くのは、時代を遠く離れた今では容易ではない。
さて、この日、院の近習たちと、なぞなぞ作りに加わっていた侍従大納言公明鄕は、この医師の名前が忠守であることから、平家物語にある有名な「伊勢平氏は眇なり」と都の貴族たち不平分子に嘲弄された、清盛の父平忠盛の故事をひっかけて、名前の音読みが同じ、ただもり であることや、眇は酢甁(瓶子へいし)に通じることから、とっさに「唐甁子(からへいし)」と、解いて
笑い興じた。というのである、それには、この丹波忠守、実は帰化人(多分唐の)子孫だった、という差別意識が、平忠盛、伊勢の田舎者という軽蔑意識とかさなりあう、意地の悪い含みもあったので、この当意即妙の、みやこびと特有の才気あふれる回答に、みんな❝おおいに笑いあわれ❞たのであるが、医師忠守は、思いもよらず、意地の悪いなぞなぞの的になって、笑い興じられたことに、腹をたてて「まかり出でにけり」帰ってしまった、という結末となった、という話である。
 歴史的にも、含みに富んだ
この小話を、わずか数行の短文にまとめあげたのは、文より武へと力が移行してゆく時代の京都公卿たちの面白くない苛立ち姿をみごとに写し出す。筆の力は、なかなかのものと思わずにいられない。


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