徒然草とともに 3章 ⑥ 59段

 

 今月,2月24日で、ロシアがウクライナ侵攻を開始して1年という。そして、ウクライナでは少なくとも市民7199人が死亡、うち438人は18歳未満の子供と伝えられている。しかも遺体の3割近くは損傷がひどく性別すら判断できないという悲惨な状況だという。ニュースを見聞きしながら、とうてい遠い国の話とは考えられず、胸を痛めた長い一年であったが、戦いは何時やむとも見えず、ますます激しさを増し、ロシアは大規模なミサイル攻撃を準備しているという。いったいこれからどうなるのか、見当もつかない。人間はいつになったら、こうしたむごたらしい戦いや貪りをやめるのだろう。

 兼好法師が云うように、「人と生れたらんしるしには、いかにもして世を遁がれんことこそ,あらまほしけれ。ひとへに貪ることをつとめて、菩提におもむかざらんは、よろづの畜類に変わるところあるまじくや」と、心に言い聞かせても、悟りすますわけにはどうしてもいかないことがほとんどなのである。

 59段は、そうした人の世で生きることのむづかしさ一切をはねのける心構えを説く上から目線の訓戒になっている。けれども、乱れた中世の世の外で、果たして耳をかたむけるひとがいたであろうか?

 世のしがらみ、欲心、野望、懈怠のこころ、将来の不安、ばたばた急がなくとも、あれこれ片づいてから・・・。つまるところ、世間の人をみていると「少し心ある際は、皆このあらましにてぞ一期は過ぐめる」ということになる。「命は人を待つものかは?」と呟く声は空しく消えたかもしれないで

  

       

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