日記随想:徒然草とともに 2章 ⑪

 第18段の、清貧を褒めたたえる思想で、兼好法師があげている中国の隠士二人について、かれらの徹底ぶりを今少し詳しく紹介をすると,まず、許由(きょゆう)という隠士は、水を飲む器さえ持たずに、いつも手で捧げるようにして飲んでいたので、それを見た人が瓢箪をあげた。ところが、その瓢箪を木の枝に懸けていたら、風に吹かれてカラカラ鳴るので、やかましい、と捨ててしまい、また水は手で掬って飲んだ、と伝えられ、法師は、それはどれほど心爽やかであったことだろう。と感心している。また孫晨(そんしん)という隠士は、冬のさなかでも布団もなく、藁束を持っていて、夜はそれに寝て、朝は片づけていたという、という故事も紹介している。
 そして、このように中国では、こんな行為を立派だと考え、後世に伝えるために書きしるしているが、わが国では、このような清貧思想に関心薄く語り伝えた文もない。と慨嘆しているのである。かかる清貧思想は中国のような哲理とは異なり、宗教において、キリスト教では一貫して流れている思想である。イエスは”金持ちが神の国に入るよりは、ラクダが針の穴を通るほうがやさしい、など、たびたび宣べていて(マタイ19-24.マルコ10-24)キリスト教会のなかでも数ある聖人たちの中で、史上よく知られているのは、イタリヤのアッシジの聖フランチェスコで、イエス・キリストの教えに 従い、徹底して清貧の生涯を終えたことで、史上ひろく知られている聖者である。
 いづれにしても、兼好法師の考えは、キリスト教の教えがまだ我が国に入るまえのことなので、双方の思想の共通点は、注目してよいと思う。

 さて、続く第19段は、日本の四季のすばらしさを、筆使い見事に描いた1文で、実のところ原文でお読みくださいとしか言えないような一節である。
 ”折節の移り変わるこそ、ものごとにあわれなれ”という書き出しで始まり、春のけしき、”鳥の声などもことの外に春めきて、のどやかなる日影に、垣根の草萌え出づるころより、やや春ふかく霞わたりて、花もやうやうけしきだつほどにこそあれ、折しも雨風うちつづきて、心あわただしく散り過ぎぬ、”こんな文章を何と紹介したものか途方に暮れてしまう。・・・
 京都にながく暮らしてきた身には、もうこれ以上はなにも言えない、と思うような簡潔で匂いたつばかりの情景描写の見事さ、数百年をへだてて変わらぬみやこのけしき、今日はこれくらいで明日は、初夏から夏の盛りへ、秋に劣らぬ冬枯れの年の暮れ、かくて明けゆく空のけしき、など、鑑賞できるものならやってみます。


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