日記:10月16日日曜随想、徒然草とともに(20)

徒然草を通読して、忌憚なくいうと、これは、中世版雑学雑談叢書と言えるかもしれない、と思っている。
ただし、その中身には、
きわめて上質の知識と感性が、ぎっしりつめこまれていて、何度読みかえしても、飽きない味わいがある。
法師自身、第238段で、控えめに自賛しているのだが、現代でもありがちな話ながら、王朝時代の背景と、内容が学芸に関する話なので、いっそう優雅で、豊かな気分にいざなわれる。
 さて、第238段は、ある前書きがあって、法師が、はじめて自賛をするくだりなのだが、それが七箇条あり、それぞれ場面も違い、なかなか興味深い挿話が書きつらねられているが、最後の自賛は趣ががらりと違うのがまた面白く、短編小説のような展開になる。
 ひとつづつかいつまんで紹介していこうと思う。自賛という言葉は、もう今では死語になってしまっているが、最近同じようなケースで使われる自慢は聞き苦しいのが多いが、これは、よりすっきりしているように思われる。
それに、日本語の漢字は、独り歩きして、1字でも意味を伝える機能を備えていて、例えば、賛といえば、賛成があり、賛否両論、また自我自賛というように使われていて、近頃は讃美のほうに負かされている感じだ。しかし、讚美より控え目で、自という語につくときは、このほうが感じがいいと私などは評価したい。前置きが長くなってしまったが、
 法師が自賛をするきっかけになったのは、さる貴人の随身が騎馬の名手で、馬芸について七箇条の自賛を書き留めた文書で、それを読んだ法師
が、たいしたことにもない話だ、その例なら、この私にも、自賛七箇条ある。という前置きで、書きつらねたものだ。たしかに、なかなか見応えのあるエピソードで、次回じっくり愉しみたいと思う。



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