33: 1茎の葦. 分かれ道

 それが10月だったか、11月であったか、その当時すでに相当眼を傷めていた私はメモ書きすら残していないが、私たちの車は小さなワゴンだったので、同じ日本人学者留学者で、当時親しくしていたSさんが出してくれた車で、私たちは迎えに行った。高橋たか子は颯爽と、というか、決然というか、ミュンヘン空港に現れた。

 銀色と金色の布を2枚貼り合わせて、裾を広くしたパンタロンにブラウスはもう覚えていないが、確か白一色ながら、やはり思い切ったデザインといういでたちで、かなり濃い目の化粧、しかしそこは京女で、けばけばしさはなかったものの「久しぶりに会う彼女に{変わったなー」というのが私の最初の印象だった。

 疲れた様子はなく、私たちは再会を喜び合ったが、興味半分で私たちについてきた娘の親友のブリギッテは、目を丸くして「あの人が、日本では美人といわれるのか?」と娘に囁いた、というのを私は後で聞いた。

 荷物の底から私が注文した切り干し大根やら、我が家の子供たちの好物「柿のたね」などをスーツケースから取り出しながら、「これって随分匂いがきつくてね、いっしょにいれた荷物にも移ってしもうたんよ」などと、やんわり文句を言った。彼女が東京に住むようになってから数年たっていたが、相変わらずの京都弁で、伊賀、京都、大阪、西宮と転々としてきた私の関西弁とで、その夜、私たちは思い切り、いろいろ話し合った。

 高橋和巳と結婚して10年余、彼女にも様々なことがあった、和巳さんが京大の吉川幸次郎教授の要請で、いったん筆を折るかたちで、京都に戻ることに決めたとき、彼女はいっしょに京都へいいくことを拒み、パリに行くことにして別々の生活を始めた。彼女はものを書くことを仕事に選ぼうとしていた和巳氏にあこがれて結婚したが、自身はものを書きになることを希望していたわけではなく、定職を持たず、物書きを生涯の仕事に選んだ和巳氏のために、その作品をせっせと清書しながら、旅行ガイドのアルバイトなどで生活を支えて献身的に生きてきた。それなのに、和巳氏がようやく作家としての地歩を固めることができたこの際、突然吉川教授の要請を呑んで京都行きを決めてことを許せなかったのである。彼女は吉川教授に「和巳が京都へ行くなら、私たちは別れることになります」ときっぱり伝え、教授に「奥さん怖いことをおっつしゃらないで下さいよ」なんて言われた、と話した。

 もちろん、これには、ほかにいろいろ事情が絡んでいる。京都時代から彼女と共に学んできた私には、京都という風土的な土地での大学生の気質などもほぼわかっていたし、おおよそのことは想像がついて充分理解できたが、それにしても、そんな風に決然と決めることにした彼女に、ポーッとして控えめなお嬢さんっぽかった可愛い外見に似ず、芯の強いところがあるんだ、と感心していた。

 また結婚以来、夫の実家で、伊賀や京都とは異質の泉州という土地の周辺事情やら、もろもろにに悩んできた私とは、状況こそかなり違っていたが、彼女の心情は、わたしには充分理解できた。日本では、ことさら関西では、まだまだ知的女性に対する風当たりは強いということも含め、私には彼女の考え方は、とりあえず、すっと受け入れられた。

 しかし、これについては、先にも述べたように別の機会にもっと詳しく書くとしよう。

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