徒然草とともに 4章 (11) 第108段寸陰惜しむ人なし

 108段、寸陰または光陰、を惜しむべし。とは、人として心得るべきと教えられ、知っていても、それを、いつも胸のうちに沈めて生きているとは、誰も言えないのが、このことばかも知れない。だから“これよく知れるか、愚かなるか”と法師に迫られて、よく知っています、と答えられる人は、いないかも知れない。
 法師は、わかりやすい例として、商人の1銭を惜しむ心を持ち出す。積み重ねれば❛貧しき人を富める人となす❜、と。だから商人が、この1銭を惜しむ心は切実であるが、それにくらべ、1刹那、仏教用語で一瞬は、うかうか、のんびり、これを運ぶ、すなわち、いつも無意識に過ごしていると、いのちの終わりは、たちまちやってくる、ということを心得なければ、と諭す。
 では、いったいどうすればいいのか、というと、道人、つまり道を学ぶ人、主として佛教徒や、修行中の人などは、遠く未来までの歳月を惜しむのではなく、ただ、今の刹那が、むなしく過ぎるのを惜しべきである。と説き、もし人が、お前のいのちは明日必ず失われる、と告げたら、今日の日が暮れるまで、なにをたのみにし、なにをすればいいか?考えあぐねるにちがいない。
 しかし、われらが生きている今、現在の時間だって、どう違うというのか。一日のうち、食べたり、用を足したり、眠ったり、歩いたり、喋ったり、を差引いたら、時はどれほど残っているか、その間に、無益なことをし、無益なことを言い、無益なことを思案して時を移すばかりか、日を失い、数か月にわたり、一生を過ごす、もっとも愚かではないか。
 こうして具体的な切り口で、嚙んで含めるように説きながら、徐々に話を深めてゆく。この独特の論旨の進め方について、国文学者の小川剛生先生も「日常卑近な話題から始めて、次第に論点を深めていき、いつしか普遍的な省察へと誘導する巧みさはやはり空前である」と高く評価されている。
 ともあれ、段の最終的な締めくくりには、中国古代の故事や、老子の言辞をとりいれている。博覧強記、しかもその理解の深さも並ではなく、この小冊子が、古典として長い生命を保っている所以もその辺にあるのかもしれない。
 謝霊運、4世紀、中国東晋から宋の時代、佛教に帰依し、法華経の筆受をしたほどの学僧だったが、自然を愛し、山水詩人として、心、常に❛風雲の興を感じ❜という姿勢だったので、高僧、恵遠はかれのはじめた念佛修行の結社「白蓮社」への入会を許さなかった。しばらくでも、寸陰を惜しんで精進しする心がなくては、死人と同じだ、という。
なんのために惜しむのか、と云えば、老子の言葉をかりて、嬰児のように、雑念なく、雑事に気を取られず、気を柔らかくし、世間の俗事に気をとられず、悪行をやめようとするひとはやめ、修行しようとするひとはすればよい。と結ぶ。この結び、よく言われる禅問答のようで、よく分からないが、考えてみる価値はありそうだ。
 尚、注によって付記すると、謝霊運は、のち443年、反乱を企て刑死したと伝えられている。







 



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