徒然草をひもといて 5章(34)達人の、ひとを見抜く眼は時代をへだてても……

 この台詞は「少しも誤るところあるべからず」といいう言葉へつづくのだが、あるべからず、というかぎりり「少しでもあってはならない」という意味で続いていくのかと思えば、そうでもないらしい。つまり、人を見る眼というかぎり、相手がどういう人物か、見抜く眼、がなければならないとつづくのかと思いきや、
およそ10項目にわたって、世のなかで、様々に語られる、あることないことの虚言を、どのように受け止めるか、その受けとめかたの人それぞれを細かく分類してみせ、結論として、、愚かな者同士のざれごとでさえ、なかなか見抜けにくいが、しかし、真実を知っている人のまえでは、言葉つきや、表情からも、ここであげた省察の程度は見抜かれてしまう。まして、明晰な頭を持つ論理的な、いわば達人が、惑つている我等を見抜くことなど、掌の上にあるものを見るようなものだ、と述べたてている。
 つまり、おそらく、わが法師の一番いいたいのは、最後の二行ではあるまいか、と思われるのである。
 最後のニ行で、なにを言いたいのか、といえば、佛の法を説くとき、解りやすく理解されるために用いるたとえを「方便」とよぶが、これは決して虚言のたぐいとして同列にみなし、決してかろんじてはならな、とやんわり、釘をさしているのである。


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