日記随想:徒然草とともに 2章 ⑨

 気の向くままに古今の文を読み、胸に浮かぶ”よしなしごと”を筆に乗せて書き散らし、気が鬱したら、足のおもむくまま、みやこのあちこちをさまよい歩き、用ができれば果たし、という独りの日々、それにも飽きたら、いずこでもいい、旅をすれば、また目の覚めるような体験ができるかもしれないと思う兼好法師。いにしえの西行法師や、後世の俳諧の宗匠芭蕉の風雲の情を狂わす旅でもなく、まして異国の詩人ボードレールの”旅へのいざない”、などとは異質の、現実派兼好の夢みる旅は、ひとり旅の自由さで、足の赴くまま、あちらこちらで、目の覚めるような観察と発見の旅への憧れである。”ここかしこ見歩き、田舎びたるところや、山里など、”いと目慣れぬこと”を味わい、都に手紙で、留守中の雑事を忘れず果たせ、などと書き送ったりするのも面白い、と楽しむ。そして、そんなところでこそ、持参した調度品などもひきたち、才能のある者や、姿かたちのよい者、いまでいう、かっこいいひとは、外目には普段よりいっそう晴れ晴れしく風格があるように見えるだろう。などと、いささか田舎者を見下した俗な説をを並べたてる。
 そして、その果てに突如筆先を変え、”寺‣社などに忍んで籠るのもおもむきがあるだろう、という締めになる。

 これは、どういうことなんだろう?と考えても無駄で、当時のみやこの知識人の正直な感情は、こんなものであったのだろう、自我があってないような法師の言説も、ときとして、本心とも、あたりまえの風俗描写とも見定めがたいところもある。

 そして、第16段では、都のあちらこちらで神前で演じられる舞楽、「神楽」の響きの美しさを嘆賞する文が綴られる。註によれば、当時、歳末には内侍所で御神楽が演じられるのが恒例であった。そして、その響きは、なまめかしく風情あり、さらに一般に音曲としては、こうした笛や篳篥(ひちりき)もいいが、いつも聴きたいのは琵琶や和琴、と書きしるす。
 実はかつて私は、京都で一度、今も宮内庁で保持されている伝統雅楽を内輪で聴く機会を得たことがあった。それは、えもいわれぬ品のいい美しさで、今も懐かしく思い出す。兼好法師は、こうした雅楽に至福を感じる感性の持ち主だったのであろう。
 続く第17段、再び山寺にお籠りして”仏に仕うまつる”行について、退屈な思いなど振り捨てられ、座禅瞑想ざんまいの醍醐味に浸り、心の濁りも清められる思いがする、と書きしるしているが、繰り返される表現ながら、かれにとって、それが出家遁世の中心課題であったことには間違いない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?