日記:10月22日、土曜日、随想徒然草とともに(26)

 午前7時、曇り空、静かな土曜日の朝である。
 徒然草を読むにつけ、兼好法師というひとは、世捨て人とはいえ、あの動乱の世に、市井の片隅で名もなくひっそり暮らしていたわけではなく、よしなしごとなどと惚けてはいるけれども、時代を見据える眼は確かで、時代背景をともに想像しながらでないと、草紙の意味をきちんと捉えるのも難しい、とわかってきた。鎌倉時代から室町時代にかけての、大変動期の京の都で、下級ながら教養ある宮廷人として半生を過し、出家遁世ののちは、自由な法師の身で、人の世の浮き沈みを見据えて生きた人だけに、語ること、なすことすべてが筋金入り、そこはきとなく書きつけたよしなしごとは、八百年たっても、びくともしないのである。
 ともあれ、続いての自賛の舞台は、比叡山、延暦寺の、天台宗の修法行事、三塔巡礼中の出来事。横川の常行堂に多年かけてあった古い額の筆者が、佐里なのか、行成なのかわからなくて、堂僧一同口を揃えて”疑い有りて、未だ決せず”とことごとしく言ったが、法師は、額の裏を返してごらん、行成なら、裏書きがあるはずで、佐理なら、ないはずだ、と額を裏返させて、塵埃、虫の巣だらけをすっかり綺麗にしたら、「行成、肩書、苗字、年号(9721027)」すべて出てきて、一同満足した、という話だ。佐理は参議、行成は大納言、どちらも同時代(10世紀〜11世紀)の、能書3筆といわれた人たちなのだが、行成だけが裏書きを残しているのは、役職、身分の高さによるのであろうか、識者間の暗黙の常識だったのか?とも考えさせられる。
 プライド高く、ばかげた自賛はしたくないし、目立ちたくはない、へそ曲がりの法師の、次の話も、その次も、誰も知らず、誰も出来なかったことを、たまたまその場に行き合わせて解決した話ばかりで、それに引きかえ、先にかれが槍玉に上げた自賛の二人は、さしたる事でもないのに、自身が仕える主君に面目が立った話に過ぎない。法師のそれは,他者が困惑気味の場にたちあったとき、有職故実について、なみではない識見を駆使して、場を助けた話に尽きる。そこが大違い、とひそかに胸をはって自賛しているわけなのである。
 そして、最後にこれを聴いて(読んで)頂いたお礼に楽しませてあげようとばかり、繰り出したのは、まるで短編小説まがいの華麗で粋な話。
 エッセイの名手として、今にその名が残るのも、故無しとしない。次回また紹介して、ともに愉しんでみたい、

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