41:一茎の葦;知性の秩序とこころの秩序

 ここ数日、西日本を襲った台風で、あまたの被害が報じられたが、東京は幸い河川の氾濫や洪水の被害にも合わず、今日は、戸外を吹く風も、はや秋の気配である。 

 そして私はまた、付箋だらけの「パンセ」岩波版邦訳書を取り上げる。いまさら言うまでもないが―こころには,知性とは別の秩序があるーとパスカルも書いている。つまり知性の秩序は、原理と照明から成るが、こころには別の秩序がある、と説き、愛の原因を理路整然と並べ立てて、だから私は愛されるべきだ、と主張しても、それは少しも証明にはならない。滑稽なだけだ、と述べる。(こういう理論組み立ては、チエホフのユモレスク小説の主人公なら、やるかもしれない話だな、と筆者はふと連想したが・・)と述べ、愛の秩序は知性とは違う、と主張した。そして、イエス・キリストと聖パウロには愛の秩序がある。と断言する。つまり、それはひとの魂の奥底にある神への全的な信仰によってのみ得られる、とパスカルは考えていたのだと思う。

 また云う。「イエス・キリストの無名性ーといっても、この世で 無名と呼ぶ意味においてのことだがーその闇はあまりにも深かったので、国家の大事しか記録しない歴史家たちには、彼の姿はほとんど見えなかった」とも書いた。ここでかれのいう「あまりにも深い闇」という言葉は、今もひどく重く響く。

 意味は異なるけれども、歴史家が、故意にか、それと気づかずにとりあげる記録や、それに付記するもろもろの解釈は、日本でも20世紀初め甚だ盛んであった。私たち世代は、ある意味それに振り回されてきた。そして惨憺たる敗戦の果てに、人々は心を今一度取り直し、見つめ直して生きてきた。

 民衆の心や、魂を無視して、あるいは煽り立て、歴史を語るのは、片手落ちであるのはいうまでもないが 目に見えないウイルス、コロナが全世界を脅かしている今、わたしたちにできることは何だろうか、と考える。老いた自分たちはともかく、これからこの地球で人生を送る若者たちに、なにを語り、なにを伝えれば、いいのだろうか?と。ここでわたしの胸には、またパスカルが云う(闇の深さ)という言葉が突き刺さる。

 かれは云う。神は、自らを隠そうとされる、と。「まことに汝は隠れています神なり」と、旧約聖書イザヤ書のくだりを引き、さらに「神が隠れていることを説かない宗教はすべて真実ではない」と言いきり(※岩波文庫版上296ページ)真実の宗教ならその理由を説明するべきだと説く。そしてわたしたちの宗教はそれを行う、と。これはいわば世にいう、パスカルのキリスト教護教論の一節でもあるが、キリスト教徒ならずとも、人間にとっては隠れています神への祈りを忘れずにいる、ということは、実はとても大切なことではないか、とつくづく思うのである。

 

 


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