日記:10月15日土曜日、随想徒然草とともに(19)
兼好法師が出家遁世したのは、いつ頃だったのか、没年は?など、その生涯については現在確かなことはなにも知ることはできない。
ただ13 世紀の後半に、京都の下級廷臣の子弟として生まれ、自身も、6.位か5位の蔵人として宮廷に出入りし、二条派歌人としても、認められいた、ということくらいで、国文学者や歴史学者、また民間識者による多方面にわたる綿密な研究にもかかわらず、未だその詳細は不明らしい。
ただ彼が出家したのは、1313年以前ということは、たしからしいので、生誕推定年1283年から概算すると、法師の出家遁世は、だいたい30歳前後ということになるらしい。それは、そのころ、かれが、山城国小野庄の田一町を買っていて、その証文(売券)に兼好御坊という記名があるのが、残っているからだそうである。
出家の動機がなにか、については、かれ自身も特にどこにも書いていない。時代は鎌倉幕府の崩壊も間近、表面上は平穏ながら幕府も朝廷も多くの矛盾を処理しきれず、不安定な状況にあったようだ。この頃若く多感であった兼好も、生きる上でのさまざまな悩みをかかえ、比叡山に向かい、修学院や横川などの僧坊で修練を積んだとも推定されている。
小川剛生氏の解説のなかに、出家のおり、かれが家集に掲載した2首が紹介されている。
ー世をそむかんと思いたちしころーという前書きで
”そむきてはいかなるかたにながめまし秋のゆふべも憂き世にぞ うき”
ー本意にもあらで年月へぬることをー
”うきながらあればすぎゆく世中を経がたきものとなに思ひけむ”
しかし、これらを深刻な厭世の歌とは、おそらく当時でさえ、だれも捉えないだろう。
いずれの時代でも、青春の憂愁は、多感な若者のこころを揺さぶってやまない。
これは私の想像に過ぎないが、あくなき真理探求の熱意に動かされ、若者兼好は、僧坊でも、修行のかたわら、おおくの経典に親しんだにちがいない。
私としては、かれの草紙の一読者として、ひとりの部屋に閑居し、孤独を愉しみながら硯にむかい、筆を走らせている法師の胸のうちに、そこはかとなくうかぶ想念が、社会の通念や、もろもろの縛りから放たれて紡がれたよしなしごとこそ、人生の詩として享受したいと思うのである。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?