徒然草とともに 4章 (12)109段高名の木登り

 熟練の植木職人と、経験浅いが、察するところ、身が軽く素早い動きの若い職人とのやり取りで話がはじまる。無駄を削ぎ落とした引き締まった文体で、まだ経験の浅い職人に、高い木の枝を伐らせ、それを監督し、じっと黙って凝視している親方。やがて、眼も眩む高い場所での作業が無事終わり、かれがようやく軒の高さくらいまで降りてきたとき「踏み外すな、心して降りよ!」と声をかけた。おそらく、やっとほっとしていた相手は「ここまで降りた来ましたから、飛び降りたってしれてます、なんで今になって、そんなことを」親方の答えはこうである。「そのことに候、…誤ちはやすき所になりて、必ず仕ることに候」なるほど、と頷いてしまう。
 法師は述べる。“あやしき下臈なれども、聖人の戒めにかなえり”と。
 まず身近な具体例の描写からはじめ、高い次元の生き方に、すっと繋ぐ鮮やかな手口、筆の運びはなめらかで、❛あやしき下臈❜などということばも、いまさら差別用語、と目くじらたてる気にもならない。同じ理屈を当時の公卿たちの遊戯であった蹴鞠にもあてはめて、添えている。体験に裏付けされたこの教訓は現代でも、すべての作業にかぎらず、野外スポーツ、登山などあらゆる分野にあてはまるばかりか、若者ならずとも、最近増えてきた老人の転倒事故にもあてはまる気がする。
 ここで挙げられる聖人とは、注によれば、第38段にも述べられた用語で儒学の孔子など理想の有徳者を指している、と。そして、そこで法師は、智慧と心とこそ、世にすぐれたる誉れ、として、残したいものである、と述べながら、さらに、現実を離れた虚しい誉れを望む心も煩惱のひとつ、と言い切っていることは付け加えておく。


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