徒然草をひもといて 5章⑭159段、160段

 漢字の読みは、古くからのしきたりとか、読みかたの歴史なども絡んで、今もなかなか厄介だが、鎌倉末期から室町の時代でも、やはりなかなかうるさかったようである。
 しかし、これは、法師の、ある意味、得意とする分野だったのでは?と思うが、漢字の読みの伝統的な作法は、現代でも、いまだしっかり残っていて、クイズなどでは、いい材料になっている。
 しかし、この種の約束事は、漢字の読みだけでは済まされない。159段は、糸の結び方の形容で、仕上げた形が海中の蜷(ミナ)という貝のねじくれたさまに似て結ぶところから、蜷(ミナ)結び、つまり、みな結びというのである。だから、蜷をニナと呼ぶのは間違い、貝はミナと呼ぶべきである、とさる貴人が云われていた。という話。貝のことはよく知らないが、そういうものなのだろう。
 繊細な神経と美意識のもち主である日本人には、前号でも述べたとおり、日常の所作動作から、立ち居振る舞い、紐や布の結びかたから、筆書きの作法に至るまで、それぞれ細かなルールがあって、水引などさえ、いまだに結び方にも細かなルールがあって面白い。単に、美しい! 綺麗ね! だけで済まされないのが、この国の面倒なところであるけれども、もの知らず、とか、教養がない、なんて言われたくないから、年寄りや、その道の人に聞いたりして、守るように気配りして受け継がれてきた伝統である。
 さて、続く160段は、動詞の使い方の作法で、法師も「常にいうことに、かかることのみ多し」と戒めるような口ぶりながら、多少はうんざりしていたのではないか、と考えてしまう。
 勘解由小路(かでのこうじ・・今も京都にある地名)二品禅門、能書家で知られた人だが「門に額を打つ」といわず「額を懸ける」というべきだし「見物の桟敷打つ」は「桟敷構うる」というべし「護摩焚く」は わるし「護摩修する」「護摩する」というものなり、と。また「行法」は法の字を澄んでいうのは悪くて、濁って云うべきだ、と清閑寺僧正は仰せになった。と。
 いずれも、高位の人々の言説として紹介しているけれども,実際は兼好法師自身も、同意見であることは明らかで、エッセーの手法のひとつとして、韜晦して書くやりかた、と受けとめてよいと思う。
 今年も」そろそろ花の季節が終わり、ひとあし早い梅雨にはいっている、次の章はそのへんからはいってみよう。
                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                            

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?