34:1茎の葦、その呟き

 その頃、私も高橋たか子も、まだキリスト教について、深く理解していたとはいえず、当時住んでいた南ドイツ一帯の民衆の心に沁み込んでいるカトリック信仰には、ほぼ無縁の生活を送っていた。そして会う人ごとに、信仰について訊かれたときは(それはたびたびあったことなのだが)やや口ごもり、別にない、などと答え、驚かれた。また「仏教か?」ときかれたときは、いちおう「はい」と答えることにしていたが、実はそれもひどくいい加減なもので、仏教はひとの死を弔う儀式、くらいの認識しか持っていなかった。

 わたしの夫は、旧制高校時代、学徒兵として応召し、結核に感染、大学入学後、病が昂じて手術を受けて腎臓を一つ失っていました。そして、恩師の矢内原教授や南原繁教授の感化を受け、キリスト教信仰に目覚め、プロテスタントの洗礼を受け、恩師に倣い無教会主義の立場をとり、家庭ではわたしたち家族に特に何も話さなかった。

 事情あって、わたしは結婚と同時に夫の両親と暮らしていたのだが、かれらの信仰は、(天照大神)の御子孫の天皇さんや、阿弥陀様、生長の家、などのごちゃまぜ信仰、それもいわゆるおかげさま信仰で、実にいい加減なもの、夫はそれも受け入れて、わたしには訳が分からず、ますます無信仰の状態だったが、夫が海外研修に行くことを決めたとき、共に行くことを決意したのも、キリスト教が人々にどのように受け入れられ、どんな形で浸透しているのか知りたいという気持ちも含まれていた。

 実は、夫の研究課題は、中世ヨーロッパの宗教思想とその政治体制への影響の究明、といったもので、マルチン・ルッターなどが中心的課題だった。夫のプロポーズの手紙のなかには、聖書からの引用もあったが、結婚してからは互いにそれに触れることもなく、実際に実行しているとも思われず、不満だらけの私に応える行動はすこしも見られず、信仰については沈黙あるのみ。特に話しあうことは何もなかった。

 さて、高橋たか子は、音楽にも関心が深かったが、当時はやや耽美的な傾向に突き動かされていて、もとバイエルン州の王で、ワーグナーを支援していたルードウイッヒ2世が建造したノイ、シュバンシュタイン城をまず訪ねたいと希望していた。わたしたちはまたSさんに依頼して、ミュンヘンのさらに南にあるホ―エンシュバンガウ地区に残されているお城を訪ねた。私たちが、どんな感想を述べあったか、今はもうおぼえていないが、わたしは、写真で見るとは違ったいささかちゃちな印象で、失望したのを覚えている。

 

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