35:一茎の葦:高橋たか子とわたし

 -私は行ったり戻ったりするばかりだ。私の判断もつねに前に進むとは限らない。それは漂い放浪する・・・・我々は前に進まず、むしろ、さ迷い歩く。ここかしこ経めぐり、逆戻りをする―モンテーニュ「エッセー」

 翌日高橋さんは、ひとりで南ドイツの街々を歩いてくる、と言って出かけ、2、3日して帰ってきた。そして、ある町の教会にあった古い螺旋階段を登っていたとき、ふと上を見上げたとたん、空から夕暮れの金色の光が射して、その光があたり全体をを包んでいるのをみて、なんとも言えない感動を覚えた、と興奮した様子で語った。そして、どうやらつぎの小説への手がかりがつかめたようだった。多分それは1973年ころ発表した「空の果てまで」という作品になったのだと思う。

 年が明けて、高橋さんは、私と一緒にパリからウイーン、できればプラハまで足を伸ばしたいといい、夫の許可を得て、私も同行することに決めた。彼女は我が家の子供たちを呼んで「お母さんをしばらく貸してね」と云い、二人にお小遣いと云って、それぞれ用意した小さな包みを渡した。

 貧しくて、平素からお小遣いなどもあまり与えていなかた我が家の子供たちの反応を見て、高橋さんはおかしがった。「あのね、二人とも受け取ると、黙ってすぅーっと自分の部屋に消えたのよ」おそらく中身をたしかめたかったのだろう。中には50マルクづつ入れられていたらしい。

 独りッ子で係累が少なく、孤独な育ちの彼女は、自身こどももなく、つねに子供嫌いを公言し、真底そのようだったが、我が家の子供たちは別格で、好感を抱いていて、かわいがってくれた。よく私に言ったものである「あんたはちっとも気がついてないらしいけど、あんたとこの子供みたいにいい子は、めったにいないよ」と。こうしてうちの子供たちは、のちのちも随分かわいがってもらった。

 ところで、そのころのことは、のちに彼女は婦人公論の随想欄にくわしく掲載していて、のちに人文書院出版の彼女のエッセイ集「驚いた花」にまとめられていたことを私は彼女が亡くなってから知った。共通の知人の聖パウロ修道院のシスターは、彼女の晩年の信仰生活を支え、彼女の書く宗教関連の本の出版も手掛けてこられたが、たまたまその本を持っていて、あなたのことを書いてますよ、といって私に下さったのである

 晩年の彼女は、一途にキリスト教カトリックに傾倒し、一時はフランスの修道会に入会の決意までして、俗界との縁も断ち切る決心をした、と伝えてきて、以来ずっと疎遠になって居た。しかしほどなく京都でひとり暮らしをしていたお母さんの介護が必要になり、ほかにも事情があったらしく日本に帰国していたことは知っていたが、わたしも夫を亡くしてから引っ越しを繰り返し、彼女が再び東京に戻り、茅ヶ崎の老人ホームにいることさえ知らなかったのだが、やがて2013年に他界してしまった。会いたかった、と娘は今もときどき呟く。

 いただいた本を読みながら、わたしの胸にも、いろいろ思うことが噴き出している。続いてそれについて書いておこうと思う。


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