徒然草とともに 3章⑧

 61段を前にして今日一日筆がとまっていた。先日からこの草紙をただ、だらだら読むより、時代の違いで身近に感じられない章は、飛び越して進めていこうと読者の方にもことわって賛同を得たのだが、この61段は、現実に私の思いがけない過去の体験を呼びさましたので筆が重くなった。

 数十年前、結婚して間もなく、夫の勤務先が変わり、私たちは夫の実家に両親と同居することになった。私は初めての出産を控え、友人が紹介してくれた大阪の産科病院で診療を受け、入院も決めていた。

 ある日姑がなにげない調子で云った「この村の(かつては村だったので)南野さんのところではな、(南野さんは村一番の土地持ちの富農)せんだってのお産の時には、畳を上げて床に床をしいてな、天井の梁に帯の紐をかけてつかまってしたんやそうな。」

 夫の故郷の大阪南部泉南地方が、同じ地方にしても私の故郷伊賀と、人々の考え方も感覚もまるきり違うことは日頃から感じていたが、これにはさすがにたまげた。勿論そういうお産は実行しなかったし、姑にしてもそれを強いるつもりはなかったようで、ただの世間話だったのかもしれない。けれども、こんな話は極端にしても、平生の生活でのもろもろが思いもよらずよみがえり、互いの感覚も価値観も、ことごとに違ってストレスだらけだった日々を思い出してしまい、なんとなく憂鬱な気分でしばらく筆んがとまってしまったのだが、思い直してはじめることに。

 さて61段、子供もいない法師が、この61段で、お産の話をもとに考察したことについて、わたしは、彼が折にふれ垣間見せる、人間生活全般にわたる広範な興味と、真実を知りたいという熱意を感じ、その姿勢に、時代を超えた新しさを感じるのである。

 だから私的感慨はおしまいにして、61段中身を紹介してみよう。この当時貴人が出産をするときに甗(こしき:鉢型の瓦製で米や豆を蒸す器)を落とす儀式があったが、これは決まったことではなく、あと産の滞ることが無いようにとの、ただのまじないである。大原産の甑を使うのも大原=大腹と音が通じるということだけの話で、下流から来たしきたりで、信頼できる典籍による説でもない、歴代天皇の什物をおさめた蓮華王院宝蔵の絵の中に、「賤しき人の子うみたる所に」甑を落としている場面が描かれていた。と述べて、万事いい加減な推測で、ものごとを解釈することはつつしまねば、とさりげなくいましめているようだ。

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