徒然草とともに 3章 ③ 56段

 56段で述べられる法師独特の人間関係論というか、マナー論は、現代の日本人が読めば賛否両論に分かれるのではないか、と思うほど気難しい。
 
 というのも、まず、久しぶりに会った人が自分の方にあったあれこれの出来事を残りなく喋り続けるのは鬱陶しい。隔てなく心を許しているひとでも、暫らくぶりに会う時は気を遣うべきではないか、また、二流の人物はちょっと出かけても、その日にあったことを息もつかずに喋くってご満悦だが、すぐれたひとは、大勢の人に向かっても、ひとりに喋るようにじっくり言うので、人も耳を傾けるものだ。そうでない劣った人は見さかいなく見聞きしたことをありのままに大勢の前で喋りまくり、みんな同調して笑いさざめいてとても騒々しい。などとと、耳が痛くなることを並べ立てる。

 また、面白いことを云ってもそんなに面白がらない人、面白くないことを云ってもよく笑う人、その違いで人品の程度もわかるというものであると、なかなか手厳しい。

 また、人の風采の良し悪しについてあげつらったり、学があって才能のある人は、ある論議の優劣について人々が論評しているところへ、自分のことを引き合いにだして口をはさんだりする、これも実にやりきれない。と。

 これは立派な近代の人間関係論じゃないか、と言いたくなるような内容である。

 この徒然草が書いた時代にはあまり顧みられず、「没後ほぼ100年して兼好は忘却の淵から甦る」と巻末の解説にもあり、向後二,三の識者に尊重され、愛読され、紆余曲折を経て、ようやく300年の歳月を経て、江戸の初期 「たしか慶長年間(1590~1616)を境として、多くの読者を獲得したことは事実である」とあり「松永貞徳のなぐさみ草に『このつれづれ草も、天正のころまでは名を知る人もまれなりしが、慶長の時分より世にのてあつかふこととなれり』とするのは有名である」としるされているので、こうしたことからこの草紙の内容について、次号で私の感想を述べたいと思う。                                                      
                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                 

 


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