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レッド・マカロン

 考えてもなかったことを考えつくため、考え込んでみる価値はあると信じられる。苦心の果てにひねり出せる手を持っている。それが人間の指す将棋だ。だから将棋は時間ばかりがかかる。時間をかけた分、よい手が指せるとは限らない。かけた時間を裏切るように悪手を指すことも多い。それでも人間は、理想を実現するために時間をかけなければ気が済まない。そういう生き物だ。最善手にたどり着くためだけではない。考え続けることは、上達にも欠かせない。考えている間に考えになかったことが浮かび、それが次へつながるヒントになったりする。

 目先の勝負がすべてではない。まとまりそうでまとまらない読み筋が、絡まって、どこかで結びついて香車1本強くなる。それは日々の積み重ねなくして、決して起こり得ないことだ。先に歩を成り捨てるべきか、それとも単に香を出るべきか。私が突き詰めていたのは、微妙な手順の組み立てだった。どちらが受けの余地が、あるいは手抜きの余地が少ない? 細かな違いが勝敗に直結することもあれば、どちらも大差がないこともある。その場合、考えた時間の大半は無駄とも言える。考え抜いた結果、何も考えなかったのと同じ所に戻る。そうだとしても考えずにはいられないのが棋士ではないか。一局に魂をかける以上、一手を疎かにできるはずがない。

 私は1時間以上長考したところで、マカロンをいただいた。読み耽る間に失われたエネルギーを補うには、お茶では不十分だからだ。形勢は楽観的にみて互角。夜戦は厳しい激戦になることが予想される。次の一手はどうやら自身の直感に戻ることになりそうだ。


「大事な相談がありまして……」
 静寂を破ったのは駒音ではない。
 そこにいるのは、立会人の先生ではないか。

「人生相談か何かですか?」
 名人が即座に反応した。

「まあ詳しくはみなさん向こうの方で」
 立会人は部屋の外を指しながら言った。

「いやー、流石に今は」
 名人が顔をしかめる。

「終わってからにできませんか」
 私もここでの中断は望まない。一度切れた緊張の糸は、簡単につなげるものではないからだ。

「とりあえず時計を止めから」
 立会人は記録係に指示を出した。

「時計は止められません!」
 制服を着た少年はきっぱりと言い切った。

「いいから止めて。今はいいから……」

「いいえ、よくありません! 終局まで時計は止められません!」
 少年は両手で覆うようにしてタブレットを守っている。誰よりも強い意志を持っているように見えた。近い将来、彼は棋界に新しい風を吹かすことになる。私は確信に似た予感のようなものを感じた。


「失格!」

 立会人が、いきなり失格を告げた。それは私だ。
 部屋の中で食べてもよいおやつの直径は10センチ以内と定められていたが、私の食べたマカロンがそれを超えていたという判断のためだ。

 開いたままになった私の口から一気に魂が抜けていく。もっと銀の頭を叩いて、もっともっと踊りも見せたかったよ、田楽刺しを楽しみに取っておいたのに、銀の横に張り付いて寄せに参加したかったし、近づいてくる竜がいるならピシリと叱りつけてみたかったの、もうすぐ馬になってかえってくるつもりだった、もう少しだった、わし天国への道筋をずっと描いておったのよ、ずっと先かまだこれからのことだった……。共に陣を組んで戦った駒たちの無念を引きずる魂だった。

「何センチでしたか?」
 私は厳しく立会人に迫った。
 私の感覚が正しければ、これは重大な誤審に違いない。
 記録係がビデオ判定を求めた。名人は黙ってコーヒーを飲んでいた。立ち昇る湯気が盤上を越えて、竜の魂と交わるのが見えた。

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