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反逆のポリバレント

 ピッチの中に入った俺たちが最初にやることは、俺が中心となって1つの輪を作ることだった。腕を肩に腕を肩に腕を肩に……。密に顔をつきあわせて、俺はみんなに伝えるべきことを短くまとまった言葉で伝える。昨日監督が言ったことは、もう忘れられている可能性がある。あるいは、色々ありすぎて最も大事なことがぼけてしまっていることもあるだろう。何を置いてもなくてはならないこと、事の本質を拾い上げて、俺は至ってシンプルな言葉として言っておかなければならない。それがキャプテンとして、絶対に欠くことのできないはじまりのルーティンだと言えた。今日の俺たちにできること。戦術を正確に守ること、個性を存分に発揮すること、プロフェッショナルとしての姿勢を忘れないこと、何よりも観客を楽しませること。どれも1つとして疎かにすることは許されない。

 それぞれの肩に回した腕から伝わる振動は、高まる興奮と熱い情熱を示している。ここにできた小さな円陣は、これから始まるダイナミックな運動の象徴なのかもしれない。俺は短い言葉によって戦術の理解と同時にプレーの冷静さを求めた上で、最後に気合いを注入する。気持ちで負けないことは、理屈を越えて試合を左右することにもなるからだ。
 輪の中に満ちた気が最高潮に達したら、ついにそれを解き放つべき時がきたということだ。風が吹いたら、桜は散るものだ。円陣を離れて、それぞれのポジションへと散って行く。たった1つのボールを追いかけて、今、終わりなき旅が始まろうとしている。

「行くぜー!」

♪♪♪


 フォワードは足下にボールを置いたまま、ゆっくりとこちらに向いて歩いてきた。何だ? 早くも相談事か。そんなことではボールが敵に渡ってしまうぞ。いったいどういうつもりなんだ?

「キャプテン、さよなら!」
「ん? さよならだって?」
 大事な試合を置いてどこに行くというのだ。

「今からベルギーに行ってきます」
「今じゃなきゃ駄目なのか?」
「そうです」

 フォワードは引き下がらなかった。もう心は決まっているのだろう。
「そうか。じゃあな。ステップアップにはいいところだぞ」
 退場でもなく1人が欠ける。長い人生にはそんな試合もある。

「僕も!」
「まさか君もか?」
「キャプテン、さよなら!」
「どこへ行く?」
「ラーメン屋になります!」
「急になろうとしてなれるものじゃないんだぞ」
「ずっと温めていた夢でした」
 そうか……。陰で何かこそこそしているとは思っていたが、そういうことだったとは。

「豚骨か?」
「いえ、そこはまだ」
 慎重な男だ。
「今度食べに行くよ」
「ぜひ!」

 攻撃陣が薄くなったが、逆に言えばスペースができたということだ。数に頼らないフットボールもあるのだろう。新しい陣とは、こうして生まれるのかもしれない。

「じゃあ俺もこの辺で」
「何? ポジションに不満があるなら俺から監督に……」
「俺、プログラマーになります!」
「そうか、視野が広いんだな」
「頑張ってください!」
「ああ、お前もな!」

 単なる司令塔と思っていたが、野心を内に秘めていたようだ。人は見かけによらぬものだな。それにしてもおかしなことが続くものだ。まだ前半戦も始まろうとしているところだというのに。

「キャプテン、お世話になりました!」
「どうした? まさか君も……」
「今から田舎に帰って酒屋を継ぎます」
 いつの間にかボランチはリュックを背負って立っていた。

「急ぐんだな」
「はい。今夜の列車で」
「そうか。切符は買ったか?」
「えっ? 切符ですか」
 今はもう切符なしでも乗れるのだとか。
 進化していくのは戦術ばかりではないのだな。
「じゃあ気をつけてな」
「さようなら」

 突然、俺は求心力を失ったことに気がついた。近づいてくるのはさよならばかりだった。

「先輩、ちょっといいですか?」
「ん? どうした?」
「僕、今からパティシエになろうと思います!」
「そうか。じゃあ行ってこい!」

「えっ? 今っすか?」
「好きなんだろ?」
「好きです」
「じゃあ今すぐに行ってこい!」
「はい!」

 俺はシャイなリベロの背中を押した。愛は熱い内に。人生には1つの試合よりも大事なことがあるのだ。キャプテンとして、みんなには幸せになってほしいと思う。

「おい! どこに行く? 試合中だぞ!」
 いくら何でも黙って行く奴があるか。俺は久しぶりに憤った。
「マラソンに出ます!」
 おかしなビブスをしていると思ったが、そういうことか。奴にとってアップはこの試合のためのものじゃなかった。ささやかな裏切りに俺はため息をついた。
「ああ、じゃあな。お前のスタミナなら大丈夫だ」

「キャプテン、そろそろ俺らも行きますね」
 行くことはもう決まっているようだ。
「宇宙飛行士になります」
「そうか。ここは狭すぎたか」
「どうもお世話になりました!」
「気をつけてな」
 続いてもう1人のセンターバックが口を開いた。

「僕は漫才師になります」
 相方は他のチームにいて今から合流するらしい。
「そうか。腹の底から笑わせてやれよ」
「じゃあ頑張ってください!」

 適材適所。人にはそれぞれいるべき場所というものがある。それを決めるのは当然、自分自身だ。

「どうも」

「ああ、君はどこへ?」

 もう、さよならにもすっかり慣れてきた。きっと俺の方が大きな思い違いをしていたのだろう。戦いのはじまり、あの円陣は送別会だったのではないか。そうでなければ、こんなにも続けて見送るものがあるはずがない。

「僕は作家になります」
「そうか。いつもメモを取っていたものな」
「ふふ」
 戦術か何かをまとめているものと思っていたが、そういうことだったか。

「今か?」
 念のために俺は聞いた。

「今から書き出したいんです!」

「君なら大丈夫だよ」

 作家は既に姿を消していた。よほど待ち切れなかったのだろう。俺は自らゴールマウスに歩いて行った。

「いてもいいんだぞ」
「やっぱり俺も……」
 誰がゴールを守る? 流石にそんな台詞は吐けなかった。

「因みにどちらへ?」
「ココイチに行ってきます」
「そうか。カレーはいつでも旨いもんな」
「キャプテン、さよなら!」

 ダゾーンのカメラがありのままのさよならを映していた。
 今夜、ここでパスもシュートも見られない。
 予定されているのは、ミスチルのライブだ。

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