目はクリクリと大きく頬は朱で(その7)

 さて、舞台はちょっと現代に戻る。

「えーじいちゃんの同級生がこれとそっくりなアニメ描いてたって?」
「アニメじゃない、漫画、でもない、そうだな、挿絵つきの小説だ。」
「ラノベじゃん。ラノベ。」
「ラノベっちゅうのか。それは知らんが、まあとにかく絵はそっくりだ。」
「うっそやー!じいちゃんの若い頃ってスッゲー昔じゃん!」
「いや、それが、当時普通に売っていたような漫画やイラストは確かにお前が言うように今見たら古くさい絵柄だったが、柿揚、奴の漫画は違った。当時も、まあ可愛い絵だ、とは思っていたが、それよりも奇妙さが先だって慣れるまでは受け付けなかった。
 お前のアニメ雑誌を眺める限り、今は柿揚のような絵が主流なのだな。」
「うそやろ、じいちゃん。証拠ある?」
「・・・ない。奴とは大学の同期だが、もっぱら奴の絵を見たのはフィリピンの俘虜収容所でだったからな。」
「じいちゃんフィリピンに行ってたんか。」
「ん、まあちょっとな、4年くらい。俘虜収容所で柿揚は収容所管理の仕事を米軍に任されていた。そこで、そうだな、今で言うところの部活動みたいなやつを初めて、そこにその挿絵つき小説を連載していた。」
「その小説残ってないの。」
「復員の時に全部米軍に没収されたからないんだ。」
「すっげーアメリカ軍好きすぎて没収したんだ!」
「いや、ただの規則上の話だろう・・・」

 橘修平はあれこれ記憶を辿ったが、柿揚のイラストは現存していないと結論づけた。少なくとも手元にはない。

 退屈な収容所生活だったが、今思い返してみると楽しくないことはなかった。その理由の一つに柿揚が主催していた文芸誌があったのは間違いない。
 なんと言ったか。文芸誌「萌星」だ、そうだ、思い出した。
 
 大輔のアニメ雑誌にはやたらと「萌」という言葉が出てくる。
 雑誌の中程にあった専門用語解説によれば、女の子などに可愛さを感じた時に使う言葉らしい。
 「萌星」か、時代を先取りしすぎた文芸誌だったな。 

 俺は大尉だったから堂々とは読めなかったが、下士官兵が回し読みをしているときに気の利く奴がこっそり持ってきてくれた。
 管理棟に用事があるときは必ず柿揚のところに寄って次はいつだ、次はいつだと催促もしていた。

 柿揚は収容所で子分を3~4人ほど作って悠々自適に暮らしていた。

 俺が大尉で奴が一等兵で。

 階級は隔絶していたが、あいつとは大学の同期で、よく喫茶店で議論したものだ。いや、あいつは議論には加わっていなかった。
 どこか達観しており、俺たちの二歩三歩先をいつも歩いていた。
 しかし、二歩三歩どころか、文芸に至っては何十年も先を歩いていたというわけだ。何という奴!

 生きて日本に戻ってさえいれば・・・
 目を閉じると自然と涙がこぼれた。

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