目はクリクリと大きく頬は朱で(その31)

 よくよく考えたら中隊長のことをそれほど知っているわけではない。
 当番兵になった期間、親しく喋る機会があったが、それだけといえばそれだけである。

 中隊長、齋藤大尉は京都郊外の豊かな農家の次男として産まれ、勉強ができたため、順調に進学して最後は大学の予科に進む。
 課程を修了し、甲種幹部候補生として将校になった中隊長は第二次上海事変で初陣を飾り、その後しばらく朝鮮軍で勤務したのちに関東軍へ配属されて大東亜戦争を迎えた。
 こういう経歴であるから祖国日本を彼は上海事変以降数えるほどしか踏んでいないはずである。思うに、ゆえに「梓」氏と内縁のままなのだろう。

 関東軍特別大演習では想定敵国つまりソ連軍幹部役で参加し、にっくき白露の黒幕日本軍をいかにしてぶっつぶすかを日夜研究した、と笑いながら自慢していたことが印象的である。
 そして戦局の悪化から南方要員として「縒」兵団に配置されてフィリピンに送られ、柿揚の中隊長となる。

 中隊長の表情はシニカルな笑みに包まれ、その内心をなかなかあらわにしない。しかし将校特有の酷薄さは他の幹部ほどにはない。
 下士官兵からすると不合理な方針を押し通すことがままあり、経験豊富な軍曹伍長から陰口をたたかれていたが、柿揚からすれば、中隊長とて第二次上海事変以来の経験豊富な指揮官である。

 なにか我々にはわからない大局を見据えた上での判断だろうと柿揚は納得していた。そう納得しないと、中隊長方針の結果増えた作業や日々の雑用を押しつけられた身は動かないという意味もあったが。

 右の耳たぶと左手の小指の先は欠けている。北満の寒風に吹かれて凍傷となったそうだ。
 容貌は見事な馬面で、額は広く、頭髪はやや後退気味であるが、残った部分は坊主頭にしては実った麦畑を連想させるほど豊富である。
 髭は妙に薄かった。
 この三枚目の見てくれが男色趣味の噂を加速させたとも言える。

 ゲリラ討伐では必ず後方で指揮をした。
 討伐は一度やるとだいたい必ず1~2名は死ぬか負傷した。
 むろん、命惜しさからではないだろうが、そうくさす者もいた。
 しかし一度露営中、深夜にゲリラの発砲を受けたことがあったが、このとき最も素早く動いたのは歴戦の下士官ではなく中隊長だったと聞いたこともある。  
 
 と、いうのが柿揚の知る、理解する限りの中隊長のほぼ全てである。
 これらの大部分は本人から聞いた話、下士官兵のうわさ話、柿揚自身の乏しい軍隊知識などを総合した非常にあやふやなものである。

 それでも「梓」氏に中隊長の生き様を伝えなければならない。
 しかし自覚しているとおり、自分の知る限りではいかにも不十分である。
 柿揚は俘虜のうち、生前の中隊長を知る者達を訊ね歩き、中隊長の生き様を蒐集した。 
 その途中、管理の用務で訪れたタイバニ支隊の収容所棟でかつての中隊衛生兵、玉田軍曹と再会した。

「おお、生きちょったか柿揚さんよぉ!」
 ベッドに横になったままの玉田軍曹は相変わらずの声調だった。

 玉田軍曹はレイテ島に渡った後に中隊長とはぐれ、彷徨っていたところを16師団の歩兵部隊と合流し、命ながらえた。
 指揮をしていた中佐は現地名をとってタイバニ支隊を名乗り、米軍への反攻の機会を窺っていたが、結局一度も矛を交えることなく、山中で終戦の大勅を受ける。
 タイバニ支隊は途中、中佐をはじめとする幹部がマラリアで弱り切り、厭戦気分が支隊中に蔓延していたため、命令を届けに来た伝令が気抜けするくらいあっさり降伏したとのことである。

 玉田軍曹に聞いたカンギバルにいた中隊の主要幹部の末路は悲惨だった。
 銃剣道の錬士、篠原軍曹はレイテ島に渡る途中舟艇から落ちて溺れ、玉田軍曹の見たところフカに襲われたとのことである。
「ありゃあ、どげんしてん助からんわい。陸の上ならシノさん、フカでんなんでん突き殺せるんじゃろうけどなぁ。海の中じゃ分が悪ぃわなあ。」
 
 原田伍長はレイテ島に渡った後、ある日、発狂したのか突然両手を挙げ
「やめだやめだ!やめだ!もうやめだ!」と叫んで急峻な密林の坂道をころげるように降りていったそうだ。
 彼を連れ戻す元気のある者はいなかったため、誰も追わず、以来原田伍長は行方不明のままである。
 
 玉田軍曹はこの翌日ゲリラの襲撃で中隊長とはぐれるため、柿揚の原隊の軌跡はここまでしかたどれない。

「苦労なさりましたね、玉田軍曹殿」
「なぁに、中助ほどやないわ。死んじまったらしいやんか、中の奴」
 ここで柿揚は中隊長の遺言を玉田軍曹に話した。
 なるほどなるほど、と腕を組んで玉田軍曹は頷きながら聞いてくれた。
「そら悪いことしたわい。男趣味じゃとかなんとか。」
 そういえばこの玉田軍曹は大のおしゃべりで、中隊長の男色趣味の噂は玉田軍曹を媒介して中隊に広まった節がある。

「ま、なんにしてん、ワシらは帰国できる、中助以下死んだ連中は帰国できん、それだけや。帰国できるんやったら、できんかった連中の遺言くらいなあ、ちょっとは手伝うてもバチはあたらんやろう。
 中助の話ならワシもいろいろ知っちょる連中をあたっちゃるわ。」
 
 柿揚は玉田軍曹の協力をとりつけ、編集部に戻った。

 戻った頃は夕方で、編集部員が取り置いてくれた夕食が机に上がっていた。誰もいない編集部で米軍の石油缶を加工した食器に盛られたコーンビーフを眺めていると、突如話しかけられた。
「こいつで飯を食うのもあと3ヶ月ですね。」
 背後に東海林がいた。
「柿揚さん、知っていましたか。」
「なにをだい。」
「「赤萌」の「月見」氏こと栗原さんと神々廻さんが同じ部隊だったって。」

 神々廻が関東軍にいたことは以前本人から聞いたが、同じ部隊とは初耳である。もしそうならその縁の数奇な特異性から神々廻は話題にしたはずであるが、それを隠していたとなると・・・
 窓から差し込むフィリピンの強い夕日が東海林を逆光に真っ黒にしていた。収容所の広場の喧噪、編集部のインクと粗末な紙、そして建材に使っている木材の臭い、柿揚はある嫌な想像をしていた。

「神々廻さん、本名は藤田、階級は少尉、「月見」氏の小隊長だったそうですよ。」
 嫌な想像はえてして当たるものだった。

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