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父さんの会社が倒産した

ダジャレじゃなくて、どうやら本当らしい。

還暦を迎えた父は、実に40年余り、今の会社に勤めてきたということになる。それなのに私は、父の仕事について実はよく知らない。昔から、聞いてもなかなか教えてくれなかった。ただ、副社長とともに会社を大きくしてきたということは、なんとなくだけど知っていた。父の給料も知らなければ役職も知らないから、それが専務だとか常務だとかの名前が付くものなのか、はたまた本部長だとか事業部長だとかそういったところなのかというようなこともよくわからなかった。

「実は会社が終わるんだよ」
本当に、本当にサラッとそのことを告げられたのは、先週のことだった。何を聞いても詳しくは教えてくれなかったけれど、還暦まで勤めあげた職場がなくなるということは、どうやら確からしかった。コロナの影響なのか時代のせいなのか会社の問題なのかは分からない。きっと、母だけにはその理由を伝えたのだろう。それでいいと思う。娘には心配をかけたくない父と、割と口の軽い母。よっぽどの事があれば、母から「実はね…」と連絡が来る。それが、私の家族の統制の取り方だ。


田舎町特有の、家族情報もすべて筒抜けの地元において、近所の人達の目に映る私の家族は「温かくて良い家庭」だったように思う。マメで愛情深い性格の父は、いつだって"喜ばれることに喜びを"がモットーで、誰かが困っていれば手を差し伸べて、母にあれが食べたいと言われればニコニコしながら買いに出かけるような、正真正銘、人のために尽くすタイプの人だった。母方の祖父母からの評判も良く、「ユキちゃんは本当にいい旦那さんもらったねぇ」と繰り返し言われていた。私の友達にも「メメのパパ大好き」と言ってくれる人たちも多くいる人望の厚い父だった。実際にそうだったとは思う。随分と幸せな生活だったとも思う。感謝もしている。

だけど、幼い頃、私は父のような大人になりたいと思ったことがなかった。父についての作文を書かされたときも、何を書いたのかあまり覚えていない。父には、あまり学がなかった。所謂高卒で、大学も出ていない。あらゆる場面で「結局人生遺伝子ゲーか」と落胆することさえあった。こんなに恵まれた環境でありながら、博識な親の家庭に生まれていたらだなんて、罰当たりなことを考えたりもした。だって、例えば、父は「幾何学」という文字が読めない。茨木のり子を知らない。ブルーハーツを英語表記したかと思えばBURU HEARTSときた。その度に少しずつ泣きたくなったんだ。今となっては大好きな所しか思い浮かばない父と、思春期の頃はぶつかることもあった。あらゆる面で自分に限界を感じたり、親から得られる進学についての情報量があまりにも無いことに落胆したりするたびに、私は私として生きていくしかないのだと、家から遠く離れた場所で暮らす選択をしてきた。

だけど、実際に職に就いてみると、一つの場所で40年も働き続けられるということは凄いことなんだということが、実感としてわかった。勤続40年。途方もない時間に思える。名の通る大企業の重要な下請けポストに、最終学歴高卒の父が会社をまわす側として役割を担っていることもまた、珍しいのだということを知った。それは父自身の学歴に変わる血の滲む努力が功を奏した結果だったのだと思う。

思えば、小学校に上がりたての私にインターネットを教えてくれたのは父だった。パソコン横の柱に貼ってくれた父お手製のローマ字表を見ながら自然とタイピングを覚えた。当時にしてみると珍しく、インターネットの怖さのようなものよりも「お父さんが教えてあげられないことも、この中に答えがある。」と、私の可能性や物事を分別する力を信じてネットを使うことを任せてくれた。

当時ホムペと呼ばれたブログのようなものを作ろうとした時も、パソコンには「赤」と打ってもそれが赤い文字にならないことを知って、HTMLを独学で覚えた。それを勉強だとは思わなかった。そんなふうに「好きにやってみれば良い」と任せるということで、自らの生きていく力を育んでくれていたのは父だった。「私は私として生きていくしかないのだ」と思っていたのは私だけで、私が私として生きていけるように、一人で地に足をつけて歩いていけるように、可愛い子には旅をさせよの精神で、放任に見せかけた大きな包容力でサポートしてくれていた父のおかげで出来る様になったことが、実は沢山あったのだと分かった。

きっと会社でもそんなやり方で部下を育ててきたのだと思う。休日の父に時折かかってくる電話を聞いていても、頼られる存在であることは知っていた。何があったのかわからない。まだ、詳しくは聞かない。聞けないというのが本音だし、きっと話してはくれないんだろうもは思うけれど、そんな父の会社がなくなる。

父と母の仲人をしてくれた親戚のお蕎麦屋さんも、100年の節目を迎えて店を畳んだ。大正時代から続いた美味しい美味しい信州蕎麦のお店だった。蕎麦屋のくせにソースかつ丼が美味しかった。

コロナ禍で変わったことが沢山あった。私が東京にいる間に、大切な地元の何かが音を立てながら崩れていくような気がした。大好きな場所が失われていくようで怖かった。大切に作り上げてきたものだって一瞬で終わってしまう現実から目を背けたくなった。だからもう何も大切になんて思いたくないと思ってしまった。大切なものにほど近付きたくないし、なくなってほしくないから触らない。このままにしておきたいから遠ざける。

だけど、そうやっていろんなものを遠ざけているうちに、本当に本当にもう手の届かないところに行っちゃったら。一瞬でもそんな考えがよぎった時、気が付いたらお父さんに連絡していた。

普段絶対に言わないような言葉だけど、昔から変わらずに、ずっとずっと根底にあった言葉。「会社大丈夫?」とか「これからどうするの?」とか、そんな聞きたいことが山ほどあったけれど、なんにも聞かずに全部全部この言葉の中に詰め込んだ。

「お父さん、大好きだよ」

昨日は、父の日だった。

「最高の父の日になったよ」と返事がきた。
お母さんと晩酌してる写真とともに、佃煮の写真も沢山送られてきた。またもやブレブレの写真だ。そういえば佃煮が美味しいよって、父の日に贈ってたんだった。写真の中で、父は笑っていた。どんな状況かわからないけれど、変わらない顔で笑っていた。少しだけ白髪は、増えたかもしれない。

これからどうするのか分からない。
父のことだから心配していない、なんて言えば大嘘だ。大丈夫かな。やっぱり心配でしかない。100歳まであと40年生きていてほしいと本気で思う。なんなら40年なんて言わず200歳でも300歳でも生きて生きて生きていてほしい。


そんな風に思っていたら「次スマホ変えるときは、iPhoneを使ってみたい」だなんて、LINEの続きがきた。なんでよ。今のスマホでも写真すらまともに撮れてないくせに。けど、まだまだらくらくホンとかは要らないみたいだ。それに思えば、料理でもケーキでも道端のお花でもサワガニでも、楽しそうにJKみたく、パシャパシャ写真撮ってた父を思い出した。案外大丈夫なのかもしれない。とりあえずもう少しこの状態が落ち着いて、ワクチンが全世代に普及したら、もっともっと会いに行こうと思った。沢山沢山帰ろうと思った。帰れなくても、用事がなくたって連絡しようと思った。マメな父の血をちゃんと引いていることが嬉しい。やっぱり私は、お父さんの子供だ。そう思っただけで、いろんなことが大丈夫なように思えた。


最後まで読んでいただき、ありがとうございました。 このnoteが、あなたの人生のどこか一部になれたなら。