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8. MEMORIES/ロバート・ハリス、家を建てる。

ハウスメーカー、もしくは建築事務所と家を建てる契約を結んだら、かなり早い時点で古家の解体、そして新居の着工という段階に入る、と勝手に思い込んでいたのだが、全然そんなことはなかった。

ここから間取りの細かいチェックと修正、外構や収納の打ち合わせ、設備メーカーを回ってキッチン、バス、トイレなどを選択(これが思ったよりずっと時間がかかります)、古家の家具、調度品、私物などの整理、照明やカーテンの選択、インテリア・デザイナーとの打ち合わせ、仮住まいの手配、引越し準備、などなど、やることは山ほどある。

ぼくたちがA社と契約を結んだのが5月31日。あれから半年近く経った今現在、ぼくたちは未だにキッチン、バス、トイレをどのメーカーから購入しようか迷っているし、照明やカーテンの選択は全くしていないし、A社へ行くたびに間取りの細かい修正を検討している段階である。これらの工程のほとんどが楽しい作業なんですけどね。

そんな中、ぼくと妻がいちばん苦労した、と言うか今現在も苦労しているのが、家の荷物の整理である。前にも言ったように、この家は築60年以上。父と母の代から我々3人家族に至るまでの間に集められたありとあらゆるモノがこの家には溜まっている。

ソファからテーブル、椅子、ベッド、本棚、キャビネット、化粧台、箪笥、食器棚といった家具、食器、調理器具、掃除器具、テレビ、エアコン、ヒーター、衣類、装飾品、靴、布団、本、雑誌、書類、文房具、鞄、トランク、クリスマス・ツリーとオーナメント、雛人形、金庫、母のゴルフ用具、亡くなった弟ふたりのギターやシタール、ドラムスといった楽器、フォトアルバム、そしてありとあらゆるガラクタが家に集まっているのだ。

家の東の端には父の、そして父が家を出てからは母がずっと使っていた小さな書斎があるのだが、ここはカビだらけのうえ、床がところどころ抜け落ちていて、医療用マスクN95を付けないと入れないような酷い状態。ぼくと妻はここにある本や書類を整理し始めたのだが、これがまた大変な作業になった。

ほとんど全てのものがカビにやられているので、手当たり次第ゴミ袋に入れて捨ててしまおうと思ったのだが、ぼくよりも几帳面な妻が本や書類を細かくチェックし始めると、とても捨てられないようなものが次から次へと出てきた。

本棚からは江戸川乱歩がぼくの父にサイン入りで贈呈した彼の短編集『石榴 其の他』(父は日本推理作家協会のメンバーで、初代理事長だった江戸川乱歩の代表的な短編を何本も英訳しており、乱歩に可愛いがられていた)、三島由紀夫の『宴のあと』の初版本(ボックス入りで、おまけに中の1ページの端が切り損ねられた製品不良本)、近代文学者の石丸久が父にサイン入りで贈呈したエッセイ集『おもかげ艸子 古典の心をかいま見て』、ぼくの人生初の紀行文「太陽とヤモリと骸骨と」が掲載された旺文社の雑誌『高一時代』の8月号の付録「夏休み異色冒険旅行記」(これはぼくが17歳の時に訪れた与論島の旅行記である)、その他、数々の洋書、和書の初版本などを発見。

デスクの抽斗からは祖母、そして母の何冊もの日記、高校生の時に同級生の女の子とデュオを組んで一時的にメジャーデビューした弟ロニーのドーナツ版のレコード、ぼくたち3兄弟の母子手帳(ぼくの体重はkgではなく、なんと匁(もんめ)で記述されていた!)、数々の古いモノクロの写真、ぼくが留学先のアメリカ、一年滞在したバリ島、そして16年暮らしたシドニーから母に贈った数々のエアメールの手紙、二人の弟の日記、そして圧巻はポケットサイズの革のケースに入った父方のお爺ちゃんの遺髪など、捨てるに捨てられないものが次から次へと出てきた。

書斎の整理にほとんど一人で奮闘していた妻は1週間もすると、「ここの整理は一時中断するわ。キリがないし、ここに長くいるとカビで体調が悪くなるの」と言って、今度は物置のような状態になっている母の化粧室の整理を始めた。

ぼくはぼくで食器棚の物入れの中に詰まった、母の何冊ものフォト・アルバムの仕分けを開始したのだが、これはこれで感慨深い作業となった。36冊のアルバムの中の9冊は母と我々家族や祖母や叔母、歴代の犬たち、母の医師会の仲間や近所の人々、そしてぼくの友人たちとの家でのホームパーティの模様などの写真が治められ、これらは取っておこうと思ったのだが、それ以外の27冊は全て母が友人と行った旅行の写真だった。

ぼくは今回、初めてそれらにじっくりと目を通したのだが、そこには思わず笑ってしまう様な写真が多々あった。モロッコ、チュニジア、ヨルダン、そしてトルコの砂漠でラクダに跨って手を振る母。シンガポールでニシキヘビを首に巻いてニカっと微笑む母。ロタ島でハンモックから落ちそうになっている母。メキシコのピラミッドの石段で現地のイケメンのガイドとポーズを取る母。インドで象に乗って投げキスをする母。オーストリアで民族衣装に身を包んだローカルのおじさんとチークダンスを踊る母。サントリーニ島でロバに跨って照れ臭そうな顔をしている母。イギリスのストーンヘンジの真ん中でジャンプする母。スイスの登山列車の中で現地のおっさんにほっぺにキスをされてニタリ顔の母。バリ島でヘルメットを被って激流下りをする母。ぼくの友人を鞄持ちにしてトルコのカッパドキアを闊歩する母。

これらは母が30代の半ばから、彼女が93歳で亡くなる4、5年ほど前までの旅の記録だが、そこには彼女のジョア・ド・ヴィーヴルが、冒険心が、お茶目さが、おっちょこちょいさが、旺盛な好奇心が、人生を謳歌する無垢な心が顕著に映し出されていた。「ママは本当に豊かな人生を送ったんだね」アルバムを見ながら、ぼくはそんな言葉を彼女に向かって囁いていた。

見終わったあと、彼女のこれらの旅の記録を捨ててしまうのはどうかと思った。これは旅の記録であるとともに、彼女の人生の記録そのもの。これを捨ててしまうことは、彼女の思い出を忘却へと追いやることなのではないか。そんなことを思った。

でも、断捨離しなくてはならないものはまだまだ山ほどある。母の本だけでも数百冊あるし、リビングの本棚の下の物入れにはぼくたち家族のさらに古い写真が詰まったフォト・アルバムが60冊以上ある。2階のタンスや押入れには母の着物や洋服、毛皮のコートやバッグなどがぎっしり詰まっている。キッチンの隣の納戸部屋には母が描いた水彩画や油絵が百点以上ある。絵は友人たちに引き取ってもらうとしても、他のものはやはり処分しなくてはならない。

結局、母の旅のアルバムを初めからもう一度じっくりと見直し、彼女が最も溌剌と、楽しそうにしている写真を携帯カメラに納めていくことにした。撮り直したのは何百枚の中の数十枚。妥協案としては決して満足いくものではなかったが、写真を少し残せただけでも良しとしようと思った。

最終的には、母が生きた証はぼくの、妻の、娘の、そして彼女を愛した多くの人々の心の中で生き続け、そして、彼女の物語は、この様に彼女について書いていくことによって語り継がれていくのだと思う。

因みにぼくがスマホで撮ったアルバムの最後の写真は、スイスのマッターホルンを望むホテルのレストランの窓際に座る母を見守る様に、大きな鷹が大空を舞っているショットである。

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