東京駅で叫んでいた人

「日銭の女から金盗めるか!」

 東京駅の東北新幹線乗り場に向かう前、土産でも買おうかと財布の残金を確認しつつ、そこら中に並ぶ売店に目移りしていると、突然女性の声が駅に響いた。三月の終わり頃であった。

 声のする方を見てみると、大きなキャリーカートの隣に小柄な二十代後半か三十代前半と思われる女性が人ごみの中で仁王立ちし、メガホン代わりに両手を口元に当てて、顔を真っ赤にして叫んでいた。たちまち人ごみが割れ、女性を避けた。彼女の隣を歩いていた息子も、無言で近くの売店に歩いていった。

「出てくるなら今のうちですよ! 犯罪ですよ、犯罪! 絶対に将来、後悔しますよ! 私は今日、日銭を稼ぐために新宿と渋谷と自宅とをそれぞれ三往復して、もうくたくたなんですよ! こんなことを平気でさせる職場の上司より、盗人のほうがよっぽど共感できます。だからさっさと出てこい!」

 すでに女性の声は枯れ始めていた。普段から大声を出すようなことをしていないのだろう。

 僕は初め、何か宗教絡みのスピーチか、過激な政党演説でも始まったのかと思った。すさまじい熱量だった。彼女は単色のセーターに安っぽいデニムに、足にはスニーカーを履いていた。スニーカーは東京駅の薄汚れた床と色あいが似ていた。おそらくもう履き古したものであったのだろう。髪は長く、後ろで結んでいたように思う。彼女の姿は、ぼんやりとしか思い出せない。声を枯らして叫ぶ彼女の姿は悲痛で、見ているのは辛かった。顔などは、直視することもできなかった。自然と足が動き、彼女の近くで足を止めることができない。

 その彼女の姿を興味深そうに眺めている人々を発見した。彼らは彼女から十メートル近く距離をとり、何も言わずにその光景を観察していた。

 僕はその瞬間、自分が今東京にいるのだということを痛烈に自覚した。

 売店で「東京ばな奈」の一番小さい箱を一箱買って外に出た。たった六つ入って千五十円。東京的な値段である。女性の声は響き続けている。しかし、もう声が枯れているのと、彼女自身、興奮のあまり言葉が意思よりも先行しているようで、支離滅裂となり、何と言っていたか、もう僕の記憶に無い。

 彼女は僕が見た限りにおいて、一瞬たりとも涙を見せなかった。僕は胃が裂けそうになっていた。

 新幹線の発車時刻が近づいていた。

 僕は匿名となって自動改札機に切符を押し込み、人ごみの中に紛れ込んだ。

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