流氷

 ちょうど二ヶ月前から、ぼくは理由もわからない罪の意識に苛まれている。ぼくの罪は夜明け前の暗い青色をしていて、手足はなく、山の上の雲のようにもうもうとぼくに覆いかぶさってくる。真昼のまっすぐな日差しに照らし出されたぼくの部屋が砂漠のように寒々しく、命の存在を拒絶しているように思え、それ以来、ぼくはあれほど愛し信頼してきたアパートの、椅子のない一室に戻ることが苦痛でしかたがない。

 街にある巨大な総合公園で毎年行われるコスモス祭りに自分が一度も行ったことがなかったことに少し驚きつつ、日曜日になるのを見はからって行ってみる。公園のコスモス畑はたくさんの人で賑わっていて、杭と紐で仕切られた向こう側には無数のコスモスがひしめいている。

 偶然友人に会い、一緒に話したりできるかもしれないと期待していたが、周囲には見覚えのない家族連れとカップルであふれ、人が人を隠し合い、友人かどうかはおろか、ぼくのように一人で来ている人なのかどうかも見分けられなかった。

 広大な畑にはどこか酸っぱい、頭にちくちく刺さる香りが漂っている。コスモスを育てるのに使う薬品が気化しているのと、人の臭気が混じり合っているのだろうか。ぼくは思わず顔をしかめる。周りを見ると、同じように顔をゆがめている人が多くいる。しかし子供たちは楽しそうに笑いながら、誰かにとがめられるまでくるくるとステップを踏んでいる。

 天気予報によれば今日の天気は曇り時々雨のはずだったが、空は雲一つなく晴れわたり、初夏のような暑さだ。コスモス畑の通路は人ごみでさらに暑く、ぼくは着ていた三枚の長袖シャツの袖をまとめてまくっている。それでも汗は額ににじみ、背中に広がり、靴の中はじめじめしている。前を歩いている太った主婦の汗だくの首もとが見える。彼女だけではない。あちこちに皮をむいた桃のようにじっとりと光る首や顔や腕が浮かんでいる。

 コスモスは白や紫色をしていて、みんなあちこちを向いていて秩序がない。そういえば植物の花の部分は、人間で言うところの性器であると言った人がいたが、ぼくはそうは思わない。やはり花は顔だ。人間だって美しい顔だちや、顔から発せられる香りで他の人間を呼び寄せているというし、花と人間を混ぜ合わせた絵を描くとき、多くの人は花を顔に見立てるか、顔を花に変えて描くのではないだろうか。それでも花は性器だと言うのなら、顔こそ人間の本来の性器なのだろう。それか、性器が顔の一部なのだ。

 畑の中を縦横に、血管のように駆けめぐっている通路は、どこを見ても終わりが見えず、自分が行くあてのない旅路を行進し続けなければならない流浪の民になっているように思える。

 ごそごそとうごめくものを足元に感じ、そちらを見てみれば、ふたりの少年が腰を屈めてよたよたと歩いている。少年は手の届く所に咲いているコスモスをちぎって、花束を作っているのだった。茎の長さもまちまちで、根がついているのも花びらが欠けているのも関係なしにまとまって束になっている。ふたりはちっともふざけている様子ではなく、それどころか真剣な顔を浮かべ、血走った目をかっと見開いている。ぼくはおもわず吹き出して、そのふたりから目を背けて笑いを堪えている。ふたりはそれでも周りから目立たないようにしているのか、周りの歩みにあわせて通路を進んでいる。しかしその手の中でコスモスは一本ずつ増えていく。

 あたりに保護者らしい姿はない。ふたりは友達同士だろうか。それとも、兄弟だろうか。

「おいこら!」

 怒声が飛んできて、ふたりとぼくと、周りの二、三人がびくっと体を震わせる。声を出したのは後ろを歩いていた中年の男で、ポロシャツを着て白いキャップを被り、首にタオルを巻いている。タオルにはミッキーマウスの絵が描いてある。立ちすくんだふたりの少年はうなだれて、自分たちを避けて進んでいく人々の足にただじっと目を向けている。男がやってきてふたりを叱り始めると、ふたりの体は少しずつぼやけていって、やがてどこまでが一人なのかわからなくなっていく。だがコスモスの束だけはくっきりと形を保ち続け、本数まで簡単に数えられた。片方は四十七本、もう片方は五十一本あった。中年男は汗をタオルで拭いながらまだ何か少年に言っていたが、霧のようにかすんでしまったふたりに、どんな言葉も届いているようには見えない。諭すような声を出しはじめた中年男の方が、なんだか哀れに思えてくる。

 歩き続けていたぼくは中年男の説教が終わる前に、声が聞こえない距離まで遠ざかってしまったらしい。鳴り止まない雑踏と男の声は混ざり合っていて、声が聞こえなくなっていることにぼくはしばらく気がつかなかった。

 ふたりを見たときに口元にこびりついた笑みはしばらく消えなかったが、ぼくは何か罪悪感とも違う、下腹がうねるような感覚を感じていた。いつのまにかぼくはかかとを地面にこすりつけるようにして歩いている。それは無数の人に踏み固められた通路の土を、もういちど耕していくように見えたかもしれない。

 こんなに花が咲いているのだから、花から花へ飛びまわる蝶の姿でも見つけられそうなものだが、畑にたかっているのは蜂、蠅、ブヨに蚊くらいで、他に蟻もクモもテントウムシもいるが蝶の姿はどこにもない。

 目の前にいる男は、隣の女に先ほどからずっと花と虫の知識を披露し続けている。女はさもそのことにずっと興味を持っていて、男に教えてもらえるのが嬉しい様子で話を聞いているが、本当は靴ずれのじくじくした痛みを男に伝えるべきか否かという悩みで頭がいっぱいになっている。男はテントウムシの解説をしている途中で、アブラムシの生態についても自分がある程度話せることを思い出し、次はその話をすればいいと、ほっと一安心している。男の口はよどみなく動いているが、汗で光る顔は何かにおびえるようにこわばったままでいる。

 ぼくは、ここにいる全ての人が溶解して、この花々を飲み込み、コスモス畑がぬっとりと対流する大きな毒沼にでもなってしまえばいいと思った。

 ふいに、力強い風が公園をなぐりつけた。コスモスが一斉にひるがえり、姉の髪飾りのように桃色と紫色がきらめいた。だが人ごみの中を風は通り抜けられない。熱はこもる一方で、ぼくはのどが乾いて仕方がなくなった。だが飲み物はなにも持っていない。ペットボトルの麦茶を買っておけばよかったなあとため息をつき首をうなだれ、思案顔で腕を組む。周りの人たちが水筒やペットボトルを取り出して飲んでいる。のどが乾いているのは誰でも同じらしい。顔を上げてみれば、ぼくと隣り合って歩いている人は全員ペットボトルを口に付けている。全てお茶のボトルである。横を見ると麦わら帽子をかぶった若い女性が、音も立てずにボトルから緑茶をあおっている。帽子の影に沈んでいる顔からうんざりしたような表情が消え、ボトルをバッグにしまうと爽やかに微笑む。ぼくに喧嘩を売っているのかもしれない。思い切り舌打ちしたいのをこらえるかわりに、蒸れてかゆかった股間を両手でこれ見よがしに掻きむしってみる。だが周囲の首は皆コスモスに向いていて、誰の視界にもぼくの股間は入ることがない。

 ぼくは何だか陰鬱な気分になり、さっさと売店か自動販売機で飲み物を買おうと足を速め、人の隙間をこそこそとくぐり抜けるようにして、コスモス畑の出口へ向かった。

 途中、離れた通路に数人のサラリーマン風の男たちが固まって歩いているのを見つけた。全員上着を脱いで、Yシャツの袖をまくりあげている。そしてよく見れば、その中に今井がいるのがわかった。久しぶりに見た今井の姿にぼくは少し泣きそうになったが、べつに今更会ってなにか話すことがあるわけでもなく、今井のいる通路まで追いかけてみる元気も無くなっていたので、ぼくは体を蛇のように細くくねらせながら飲み物を求めて早歩きを続け、草のアーチがかかっている出口をくぐった。

 草のアーチは半分枯れて、錆びた骨組みが見えている。

 売店でコーラを買い、子供と遊ぶ若妻の胸元を横目で眺めながら飲んだ。

 子供たちは巨大なハンモックでできたアスレチックで遊んでいる。ハンモックはたくさん子供が乗っても大丈夫なように頑丈な紐で作られている。土足禁止なので子供は靴を脱いでハンモックに乗るが、すぐに紐が足の裏に食い込んで痛くなる。やがて痛みに耐えられなくなった子供はハンモックを降りて、次の子供に場所を明け渡すことになる。どの子供も、痛みには耐えられない。靴を履いて乗れば、すぐ監視員に怒られる。ぼくが子供だった頃から、このアトラクションは変わっていない。コスモス祭りも変わっていないという。でもぼくは今日までコスモス祭りに来たことが無かったので、本当に変わっていないのかどうかは分からない。

 コーラを飲み終えた。人が減る気配はない。汗で髪が額に張り付いている。時刻は午後の三時ごろだろうか。

「ビール飲みたいな」

 コスモスも見飽きるほど見たので、帰ることにする。ついでに近くのデパートによって、ビールを買っていく。

 デパートの入り口の前には、近くの高校の制服を着た女の子が五人集まって雑談をしている。横には横に長いトランクのようなものが置いてあって、吹奏楽部だろうかと予想してみる。

「うわ臭っせえ、臭っせ、ユミコ臭っせ」

「ひどい」

「あははは」

「ふへへへ」

「はいユミコ、俺からのプレゼント」

「何これ」

「エンゲージリング」

「スルメイカじゃん」

「指に巻いてあげる」

「いらないよ」

「いらないの、スルメ」

「もらう。ありがとう」

「キング、どうしたの」

「昨日から鼻の奥にうどんが入ったままなの。めっちゃ気持ち悪い」

「なにそれ、鼻からうどん食べてたの」

「思いっきり鼻かめば、ずるっとでてくるんじゃない」

「やだあー」

「きししし」

「ぐふふふ」

「あれっナオちゃんスマホにしたの」

「違うよ、これiPodだよ」

「ユミコからすごいスルメの匂いする」

「本当?」

「うわ臭っせ臭っせ、ユミコ臭っせ」

「ひどい」

「あははは」

「あははは」

「あははは」

 横を通ると、かすかに胸でくすぶるような花の香りがする。今日はじめて花の香りを嗅いだような気がした。デパートに入ってからも、しばらく彼女たちの声は喧噪に負けずぼくの耳まで届いていた。

 地下の食料品売り場へ向かう。食料品売り場はどの街のどのデパートでも手の届きやすい地下か一階にある。その上の階に服や生活雑貨や整髪料が売っていて、そのまた上には文房具や本や楽器が売っている。

 食料品売り場は、白い照明が白い床と白い壁に反射して目がくらむほど明るい。市場も畑も工場もこれほど明るくはないだろう。

 買い物を済ませてデパートを出ようとすると、あんなに晴れていた空が曇り、今にも雨が降り出しそうな気配だった。

   ○

 名前も知らない鳥が駅の向こうへ飛んでいった。駅の改札をながめてばかりいる。夏の虫はもう見なくなっている。どこからか鈴虫の鳴き声がわずかに聞こえる。

 このままでは明け方を待つばかりである。空はまだ暗い。終電はもうない。かといって始発を待っているわけでもない。家出でもない。ここから十五分も歩けばアパートの二階にあるぼくの部屋にたどりつく。

 大げさにため息をつくと、バス停のそばにある吹きさらしの喫煙所に立った。靴の底が道路の表面に削られる音が、ぼくにもはっきり聞こえた。街灯に照らされた空間は妙に肌寒かった。「喫煙所」の立て札がある一角にベンチはなく、小さな吸い殻入れがひとつ置いてあるだけだった。タバコを二本、つめこむように吸った。それでおしまいだった。からっぽになった箱を握りつぶしてみせたが、まわりにはカラス一匹いなかった。

 財布の中にはいくらか金が入っていたが、その金を煙草にしてしまうのは間違っている気がした。結局「喫煙所」の立て札の根元に座り込み、黒い車道を眺めはじめる。

 するとアリの足音さえ聞き逃せそうにない鈴虫の静寂の奥から、次第にせまってくる音があった。

 辺りを見まわし、駅員が歩いてくるのを見つけた。背が高くて、足が上半身よりも長かった。煤けた街灯からこぼれ落ちた光が、すり切れた制服の裾を照らしている。駅員はぼくを見つけると乾いた舌打ちをして、のろのろと歩く向きを変え、ぼくにせまり、足を伸ばせば「喫煙所」の立て札を蹴飛ばせるくらいのところで立ち止まった。

「きみ、もう最終電車はないですよ。どこか宿をさがしてくださいな」

 棒読みだった。ぼくは上着の襟をよせたが、寒さはさして防がれなかった。顔を上げずに、硬い地面に向かって

「金がないんです」

 と嘘をついた。言ってから、駅の中には医務室のような場所があるはずで、そこに泊めてもらえるかもしれないと少し期待した。

「そんなら、なんで今の今までそこに座っていたんだ。ほら、身分証を出しなさい。きみの家族に連絡して、つれて帰ってもらうから」

「今日は残業ですか」

「さっさと出すんだ! ほら! それとも持っていないのか?」

 駅員の嗚咽のような息が聞こえる。小さな車が一台、ぼくたちの道路のむこうから走ってきて、駅前を通り過ぎ、音を立てて遠くなっていった。排気ガスの香りが残った。喉の奥にこびりつくような苦い香り。なぜか懐かしい感じがする香り。鼻で三回、呼吸をするうちに、香りは消えてしまった。

「持っていません。財布を忘れてきてしまったので」

 言ってしまってから、財布を忘れたのに駅の前に座っているのはおかしいから、これは指摘されるなと思った。

 でも駅員はしばらく黙っていた。月は出ていない。星もない。でも曇っているようには見えない。新月だろうか。指先を地面にこすりつける。街灯の明かりで指を見てみると、埃や泥や、よくわからない黒い何かまでひっついていて、思いのほか足元が汚れていることを知る。見上げれば街灯のまわりに、蛾と羽虫がうじゃうじゃいる。太陽のまわりをまわる小惑星に似ているのかもしれない。ぼくはそれを眺めようかと顔を上げる。駅員の顔は見ないようにする……街灯に群がる虫の一匹が、力つきて音も無く落ちていくのが見えた……やがて首がこってきて、とても長い時間がたってしまっているように思えてきたころに、ようやく駅員の声がした。

「それじゃあきみ……十五万円、毎月欲しくないかな?」

「えっ……」

「いやならいやで、べつにかまわないんだがね……」

 しゃがみ疲れて膝が痛くなってきたので、立ち上がる。駅員の顔が近づく。面長で、のっぺりした顔だ。黄ばんだ紙のような顔色をしている……かっちり着込んだ上着の襟と細いマフラーとのすき間に、よれたワイシャツの襟が見える……口を開くと、ほこりにまみれたような舌が動く……

「きみのようなやつにちょうどいい仕事がある。なに、商品の数を数えたり、簡単な書類を書いたりの雑用をこなしてもらうだけさ。わたしの知り合いがやっている事務所でね……」

 胡散臭い話だととっさに思う。だが自分のとっさの考えが、今まで正しかったことがあっただろうか? そしてじっくりと考える時間をもらってみた所で、出した結論が完璧だったことがあっただろうか?

「自分の部屋に帰りたくないんです」

「ああ、ならなおさらいい。泊まり込みでやってもらえるなら、給料はもっと高くなるよ……確か、二万円は高くなる……まあ、興味があったら」駅員は財布から捨て損ねたらしい八百屋のレシートを取り出して、その裏に何かさらさらと書いてぼくに渡した。

「ここに連絡してくれ」

 レシートには電話番号が書かれていた。ボールペンで書かれた細っこく乱雑な数字の羅列は、街灯の光りでゆらゆらとおどり上がり、今にも紙から飛び出して逃げていってしまいそうだった。

 ぼくはレシートを見つめたまま電柱のように立ちすくんでいたが、やがて駅員に腕を叩かれ、「お願いだから、早く帰ってくれ……」と部屋に戻るようせかされた。「眠くて死にそうなんだ」

 鈴虫の声が止んで、夜はますます静けさを増している。遠くの方に見える明かりは、二十四時間営業の居酒屋だろうか。駅員の目は血走って、今にも泣き出しそうに潤んでいる。仕事をするかしないかは後で考えればいい。だがこの重苦しい不安はなんだろう……

「いりません」

「なに?」

「返します」

 ぼくはレシートを駅員に差し出した。大きな頬を指先でこすっていた駅員はにらむようにぼくを見返してから、それを受け取り、上着のポケットに押し込んだ。

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