月のペトラ

透明な月がふくれあがり、プラスチックの管から吹きあげられる。石鹸水を満たした灰皿に、ペトラはふたたび管の先をひたす。

夕方である 空は作り物みたいに赤い ぼくらはすぐそばまで闇を迎えている ペトラの小さな唇がまたプラスチックの管に触れる ペトラは、月を増やそうとしている ぼくが5枚のビスケットを食べ終える ペトラは一枚のビスケットを5回かじる

灰皿の中の石鹸水は、鏡のように静かな水面を保っている するとペトラがまた管をひたすために灰皿を持ちあげる 水面には波紋ひとつ浮かばない ぼくは驚いてその指をじっと見つめる 指はしだいに透きとおって、ベランダの隅に置かれた植木鉢が見えはじめる

街は植木鉢である ぼくが生きることのできる範囲は限られていて しかしその外から支持と支援を受けなければならない かしわ手を打ち鳴らす ペトラも同じように鳴らしてみてくれる 父も母ももういない 早朝のように張りつめた空気が、灰皿の中まで満ちている ぼくの目は、頑丈な柵を越えてゆく無数の月を追いかけて

ふと、ひとつの月が、浮かびあがりかたがわるく、柵にぶつかり消えてしまう はじけて 粉々に あとかたもなく 肌寒い風がペトラの体を吹き抜ける 月の数が減る だがすぐに、ペトラは月を追加する

だがその月は完全な透明ではなく、赤みがかっている 空の色かとも思ったが違う ペトラが咳き込む 管の先から、ふくらみかけた月が飛ばずにはじけ、直後、雨後の排水パイプのような勢いで鮮血が吹きだす ペトラは管をとり落とす 口をとっさにおさえるが、指の隙間やあごの下の空間から、ぼたぼたと血がたれていくのを止めきれない ぼくはペトラの背中に慌てて手をやるが、ぼくの目は最後に吹きあげられた赤い月に釘付けになっている。

ペトラは手を口から離す というよりも手の方が先に力つきてしまったのだ 手のひらは血にまみれ、鼻からも出血している 団地には多くの人が暮らしていた もう誰もいない それでも電話を待たなければならない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?