マフラー・タウンと彼女の子宮

 朝の街は躍動している。小さなものと、さらに小さなものがひしめき合って、自分自身を飲みこもうとするようにうねっている。

 がら空きの天上は地上の混雑と絶縁している。電線が網のように張りめぐらされ、その向こう側をドバトとハシブトガラスが飛んでいる。彼らの高さから見てみれば、街をヒトがうごめく様は死骸に群がる大量の蛆虫のようだろう。彼らは群れのおぞましさに目眩を起こしているか、あるいは巨大な食卓を埋めつくすご馳走と錯覚し、わき出す涎を飲みこんでいるかもしれない。

 この街はうす青く透きとおって見える部分と、切り出された岩山のような部分が混合し、巨大な鉱脈のようになっている。その中に広さも高さも様々なマンションが立ちならび、数十年後に来るであろう自分が崩される日を静かに待ち続けている。

 ふいに雲の隙間から、死にたくなるような月曜日の朝の太陽が射しこんだ。青みがかった雲をくぐり抜けた突風のような日光は、一瞬のうちに街中の窓ガラスへ飛びこむと、反射し、またどこかの窓にぶつかって砕けちっていった。そうして街全体に散乱した日光の粒子は、静かな路地の片隅を少しだけあかるく照らした。

 その時、街のちょうど中心で一人の少女が立ちどまった。

 彼女はふと、自分の頭に角が生えたらおもしろいのにと考えた。彼女は隣街の高校に通っている。顔の三分の一を覆うような黒縁眼鏡をかけて、少し大きいワインレッドのカーディガンを着、校則に引っかからない程度に茶色く染めた髪を頭の上にまとめている。彼女は街一般論から言ってみれば、実在する美女であり、掴みどころのないマイペースな娘であり、生粋のピエロである。宿題をするため早朝から学校に来たと思ったら朝のホームルームが始まるまで机の下で寝袋にくるまって寝ていたり、上級生のレズビアンの女子と堂々と交際したり、教室に入りこんだ蜂と戦ったり、廊下ですれ違う友人に片っ端からバスケットボールを投げつけて回ったりする少女である。彼女はいつも、撮影機能を搭載した携帯電話に囲まれていた。もしも彼女を一言で表現するとするならば、間違いなく「平和」である。

 少女は街の中心に立ったその瞬間から、想像上の角を生やし始めた。

 街はそれを知っているのかいないのか、いつも通りの知らん顔を決め込んでいる。少女はまた歩き始め、ほどなくして隣街へ向かうための、遠目から見れば綺麗な、よく見れば灰色に汚れたガラス張りの冷たい駅へ、白黒チェック柄のリュックサックから定期券入れを取り出しながら入って行った。

 電車は毎朝、人ですし詰めになる。友人や恋人といった場所をとる人々が入り込む隙間も無いまま、ユダヤ人を運ぶナチスの貨物列車のごとく淡々と、環状線の上を駆け抜けながら人間を運んで行く。電車の中で、また外で、次々と人生を終えたり、終わらせられたり、そうでなければ狂わされたりする者が大勢いる。だから座席に尻を落ちつけた人は思い思いの体勢で瞑目して、つり革を掴む人は自分の胸の辺りに片手を固定するか、つり革の中で両手を組み合わせているか、そうでなければ本、雑誌、新聞などを、聖書を熟読する神父のごとく黙読している。この街の住人たちは、朝の満員電車の中でいつも祈りを捧げているのだ。いつ落とされるとも知れない生き地獄に怯えながら、人々は朝の電車の中で、今日一日の幸福を否応無しに祈らなければならないのである。

 だが、彼らの祈りはどこへいくというのだろう? 祈りは街という濾紙の上で濾過され、凝縮される過程でその質量を減らし、ようやく街の上に浮かびあがる小さな祈りの結晶は、誰かに拾われるより前に車に轢かれるか、誰かに踏みつぶされるか、有害物質を含んだ埃を浴びて歩道の隅にこびりついている様が想像しやすい。彼らの祈りが本当に届いて欲しい相手、それは例えば会社の腹立たしい上司、痴漢の冤罪をかけてくる女たち、無能な先輩、生意気な後輩、馬の合わない同級生などだが、このような奴らはそろいもそろって、他人の祈りを自ら無視したり、さらには嘲笑したりするものなのだ。

 電車ががちゃがちゃした雄叫びをあげながら踏切を渡る。踏切の中は電車の聖域だ。何びとたりとも入ることは許されない。犬猫や鳥でさえ自ら入ろうとはしない。それだけならば今やどこの地方都市でも見られる光景であり大きな問題は発生しないのだが、五分以上にわたってこの聖域が形成されるとなると話は少々込み入ってくる。この踏切は、朝のラッシュ・アワーが訪れるや、銃撃戦のごとく電車が通過していく。そのため線路がたくさん必要になり、聖域を隔てた向こう岸までの幅がやたらと広い。老人などは渡り切ることさえ難しいほどである。遮断機の前で車はいかにも不満げに渋滞し、その横には自転車がずらりと並ぶ。自転車に跨がりながら新聞を読むサラリーマン風の男もいれば、音楽プレイヤーをいじる主婦や、参考書を取り出す受験生の姿も見受けられる。センター試験が二週間後に迫っているのだ。

 踏切を五本目の電車が通過した頃、ちぎれた一本の指を見つけたのは集団の最前で聖域の解放を待っていたサラリーマン風の男だった。指は遮断機の足元にころがっていた。どの指かは分からなかったが、関節の数から見て親指ではなさそうだった。昨日か一昨日、この踏切で事故でもあって、その時に作業員が片付け忘れてしまったのだろうか。指はここ数日続いている恐怖のような冷え込みのせいか、あまり痛んでいなかった。血はもう流れきっているらしく、本来手と繋がっている部分は赤黒く干からびていた。男は一瞬驚いた顔をしたが、しばらく指を眺めたあとで自転車を降り、遮断機のそばにしゃがみ込むと、ゆっくり手を伸ばして指を拾いあげ、汚れを軽くはらい落としてティッシュペーパーにくるみ、スーツのポケットへ丁寧に入れた。それから立ち上がって欠伸をかみ殺し、自転車に跨がり直したが、それでもまだ遮断機は上がっていなかった。特急電車が轟音とともに聖域を横断していく。

 男の後ろで一連の行動を怪訝そうに見つめていた黒髪の若い主婦は、髪の毛と同色の太長いマフラーを首に巻きつけている。首全体どころか肩口から口元まで覆ってもそのマフラーは長さをかなりもてあますらしく、余った部分が鳩尾の下までたれさがっている。首もとは暖かそうだが、自転車のハンドルを握る青白い手はいかにもかじかんで寒そうであった。薬指には針金細工のような銀色の指輪をはめている。ふいに指輪が朝の弱々しい日差しを反射して星のように光ると、通過した特急電車の勢いで風が巻き起こり、それになびいた大蛇のようなマフラーが指の星に食らいついた。

 遮断機の警報音が消えて遮断機が上がり、聖域が消失する。この機を逃すまいと、それまで踏切に関心を向けていないように見えた人々が一斉に向こう岸を目指して突進していく。歩道をはみ出して走る中年の自転車達に向けて、自動車のクラクションが激しく鳴り響く。

 いつの日も、街中でクラクションが鳴り止まぬ朝はない。しかし条件はほぼ同じであるにもかかわらず、夕方はクラクションの鳴りがおとなしい。車達も朝からのさんざんな喧嘩に疲れて果ててしまい、夕方にもなるとお互い譲り合えば疲れることはないという結論を得るのであろうか。しかしそれでも毎朝判で押したようにその記憶を失い、また喧嘩を繰り返すというのは非常に滑稽な話である。

 同じようにクラクションが鳴る道路の横の並木道を、大きな黒縁眼鏡をかけた少女があのチェック柄のリュックサックを揺らして歩いている。今日はこの冬一番の冷え込みであるとしきりに天気予報が忠告し、人々が大陸から流れ込んできた寒気で石灯籠のように凍えているというのに、彼女は制服のYシャツの上にワインレッドのカーディガンを一枚だけ着て、サイケデリックな模様のマフラーを申し訳程度に巻いた格好のまま外を歩いていた。寒そうに顎をマフラーに埋め、手をカーディガンの袖の中に引っ込めているが、見ている方が寒さを感受してしまいそうな服装である。彼女は電車を途中で降りて、街の大きなCDショップに向かっていた。この日は角を生やし始めて四日目の金曜日であった。彼女の通う高校は大学同様に単位制を導入しているため、時間割が一人一人違う。彼女はもうほとんどの単位を取得しているため、昼の授業を一つだけ受ければ金曜日の授業を終えたことになり、好きなだけ寄り道をしながら家路に着くことができるのであった。

 だが彼女は欲しいCDのことよりも、ショップを爆破することを先ほどから考えていた。どこに立てば一番効率よく店を破壊できるのか、少し前までは真面目に勉強していた物理と化学と数学をなんとか応用しようと頭を働かせていた。しかしいつかの世界史の授業中、電子辞書の読書機能を使って読んだ梶井基次郎のことは頭に浮かばないようだった。

 彼女の角は、日に日にその存在感を増してきている。それは頭の頂点からではなく、そこから左耳に向かって十センチほどずれた所からL字型の歪な曲線を描き、空に向かって伸びている。彼女は自然と人とすれ違う時に頭を傾け、角が人に当たらないよう配慮するようになっていた。その瞬間も、歩くたびに角を包み込んで吹き抜ける風の感触を確かに感じている。

 暖房が効いた店内に入った途端、彼女の巨大な眼鏡が縁まで一気に結露した。外は陰鬱な雲が光を通さない落とし蓋となって街を覆い、地上に届くはずの暖気を遮断していた。角の少女は「しゅぱっ」と自ら効果音を発しながら右手で勢いよく眼鏡をはずすと、カーディガンの裾でレンズを拭きつつ店の中心に立った。ちょうど蛍光灯の光をぼんやりと反射している邦楽「は」行の札が眼前にあった。ちらりと目をやると、棚の上段にザ・バックホーンの新しいアルバムが三枚ほど置いてある。彼女はこのバンドのアルバムを一枚だけ持っているが、今日の目当ては他にあり、それ以外のCDを買うだけの小遣いは持ち合わせていなかった。

「もしも私が、コマンドアクション映画に出てくるみたいな、破壊力抜群の地雷だったら」と彼女は考えた。「私は一気に膨張して弾ける。すぐそばのCDは全部粉々になって、店の壁はぶっ壊れて、店の隅っこの方にあるクラシックのCDなんかはバラバラになってものすごい勢いで吹っ飛ばされて、入り口のドアなんかも壊れる。それくらいのエネルギーがあれば、こんなに薄いCDでも、外に見えるコンビニのガラスを突き破るかな」

 角の少女が思う存分店を粉微塵にしていると、少女の爆風に巻き込まれたと思われた入り口の自動ドアが開き、巨大な黒いマフラーをした若い女が入ってきた。さながら黒い大蛇が首に巻き付いているようである。それが彼女の長い黒髪と色合いがまったく同じなために、女は胸元から上の部分だけが異様なほど膨れ上がって見えた。成人式で女性が着ける晴れ着のショールを思わせる。

 角の少女の関心は店の爆破からその女性へ丸ごと移動した。まるでショーケースに飾られた兎の剥製を眺める少年のように、さも興味深そうにそれを見つめた。通販で手に入るなら、冬が終わらないうちにあれを買おうと即座に決めた。

 女はそのまま迷い無い足取りで店内に入ってくると、角の少女の隣に立った。身長は互いに大差なかった。女は少しの間だけ棚を見回すと、棚の上段にあったザ・バックホーンの新しいアルバムへ手を伸ばし、その背面に愛撫するような繊細な手つきで一枚のCDの角に人差し指を引っ掛けて傾け、そこへさらに親指と中指を絡め、棚から抜き取った。その指は白く細く美しかったが、いかにも冷たそうだった。角の少女の眼鏡を通した視界には、その一連の仕草がスローモーションで映りこんだ。関節がしなってしわが寄り、白い指の内側がぷっくりと膨らむ。CDケースの固さがその薄紅色をした人差し指の腹を内側に押し込み、柔らかく変形させる。少女の方へはちょうど手の甲を向ける形になっていたが、指の付け根がうっすらと桃色がかっていたのを彼女は気に入った。

 女はまだ欲しいCDがあるらしく、角の少女の脇を通り抜けて別のコーナーへ歩いていこうとしたその瞬間、とっさに少女は首を横にがくんと傾け、角でそのマフラーの感触を確かめようとした。

 想像上の角はマフラーを押しのけることもなく、繊維の隙間を微細な粒子になってくぐり抜けていっただけだった。柔らかさは感じなかったが繊維と角が絡み合う感覚。さらにその内側に満ちていた温もりを角の粒子一つひとつが感じ取り、少女は自分の体までもぽかぽかと暖まるような心地がした。

「ちょっと」

 やや低くくぐもった女性の声に驚き、少女がそちらを見やると、マフラーの上から茶色がかった黒目が少女を射抜いていた。さっき手に取ったCDが、棚から抜き取ったままの形で手の中に収まっている。女は少女の脇を通り抜け、その二歩ほど先で立ち止まっていた。

「ああ、いや、すみません。失礼しました」

 早口で少女がそう言っても、視線は外れなかった。と、ふいに歩み寄りながら女が手を伸ばし、少女の角の生えた側頭部を指差して言った。

「この辺に何かあるの?」

「角です」

 それは反射的な返答であった。考える素振りさえ見せずに、少女は堂々と言い放ってみせた。しかしマフラーの女はこの素っ頓狂な言葉に驚いたような様子は見られず、それどころか、なるほど納得できたとでも言うように小刻みに頷いてさえいた。

「角。うん、角か。生まれたときから?」

「いえ、最近生えたばかりです」

「そう」答えると、マフラーの女はふっと目を細めた。「私は、尻尾だったわ」

「ああ、本当ですか、ちょっと仲間ですね」

 少女が眼鏡を直しながら、どことなく残念そうに言うと、「そうね」という声が聞こえた。少女ははっと今の状況を改めて理解し、彼女に一番聞きたかったことを質問した。

「そのマフラー、どこで買ったんですか?」

「これ?」

 女はCDを持っている手でその首に巻き付く巨大な黒いものを撫でた。CDケースに蛍光灯の光が反射し、歪な月が濡れ羽色の空に浮かんだようにも見えた。

「自分で作ったのよ。ちょっと大きくなりすぎちゃったけれど、これもこれで面白いかなと思って」

 少女は目を丸くして、両手で口元を包むように押さえ、興奮を抑えきれない様子で体を激しく上下させながら言った。

「自作! すごいですね! そうか自作か、私も挑戦してみようかな」

「ちょっと覚えれば、あとは簡単よ」

 女が少女のオーバーな仕草に苦笑すると、茶色っぽい目が柔らかく細まった。女はくるりと踵を返し、少女に背を向けると店の奥へ歩き出した。眼鏡越しにそれを間近で眺めていた少女は、十年後にこんな女性になれたらいいなと思った。

 少女は結局シガー・ロスの「クウェイカー」を一枚買って、CDショップから出てきた。吹奏楽部の友人が一方的に教えてくれたものだった。店を出る直前に少女は名残惜しげな様子で後ろを振り返ったが、奥の棚に隠れてしまっているのか、女の姿はどこにも見当たらなかった。

 まだ夕方とは言えない時間帯であるにもかかわらず、街の空は分厚い雲に覆われ、どんよりと暗かった。雑踏の中に迷い込んだ風は穏やかだが、染み込んでくるような寒い大気が街中に溜まっていた。少女は角の先まで身震いし、また袖の中に手を引っ込めると、駅前通りの雑踏に自分の足音を混ぜ込んでいく。

 街にあるすべての駅前にはなぜか植え込みや小さな生け垣が作られている。そして街に降った雨などの水分は循環して、彼らのもとへ流れ着くように作られていることが多い。水分はやがて蒸散するが、内容物は彼らのもとに堆積してゆく。この植え込みはある種の留置場としての役割をはたしているのだ。彼らの中に、果たしてどれほど多くのものが溜め込まれているのだろうか。埃やトラックが出す煤、人の吐瀉物、動物の排泄物。そういったものにまみれながら、しかしそれを覆い隠すような黒い影をその足元に落として、彼らは静かに表情を隠し、流れにその身を任せている。

 やがて夕方になり、角の少女が家族の待つ家に帰り着いたころ、空に僅かな晴れ間がのぞき、そこから黄昏を見ることができた。

 細く変形した黄昏は街のところどころで見られ、ビルの壁や路上に停まるタクシーの列、大手量販店の前に並んだ大量の自動販売機に必死に飲み物を補充する作業着姿の男などを、合図もなく照らし出した。それは菩薩がこの街の人々に垂らした蜘蛛の糸のようでもあった。

 その糸に誰一人として縋りつけないまま夕日は沈みきったが、人々はそのような手軽な救いなどここにあるはずが無いと割り切って、安易に差し出される助け船を疑い、乗り込むことを恐れているようだ。空が黄昏から群青へ、群青から紺色へ。その紺色さえ分厚い黒雲が月の光を遮ってしまうと空は重苦しい漆黒に染まり、やがてこの冬で一番暗い夜がやってきた。

 暗黒に包まれた街に雪が降り始めた。街にとっては実に五年ぶりの降雪である。雪は次第に量と大きさを増し、まもなく立派な牡丹雪がしんしんと降り積もり始めた。人々ははじめ、そろって奇異の眼差しでそれを建物の中から見守っていたが、やがて様々な瞳――子供たちの喜ぶ笑顔の瞳、昔を懐かしむ老人の瞳、明日の交通状況を心配する労働者の期待と不安が混じり合った瞳――が街中の窓からのぞいた。

 あるサラリーマン風の男も、小さなマンションの三階の角部屋で、リビングの壁にはめ込まれたやたらと大きい窓にフェイスタオルをあてて、暖房のために発生した結露を拭きつつ外の様子を見守っていた。彼は腕まくりをしたYシャツ姿で、スーツの上着は椅子の背もたれに引っ掛けられ、ネクタイはテーブルの上に力なく置かれている。彼は雪を見ながら、大学卒業前、卒業論文の制作に追われていたときに降った雪を思い出し、しばし懐かしい気分に浸っていた。

 しかし買ってきた酒に入れるためのロックアイスを取り出そうと冷凍庫を開けたとき、ずっとそこへ入れておいた一本の指が芯まで完全に凍り付いているのを見つけると、もう外の豪雪も近所のスーパーで総菜と一緒に買ってきたフォア・ローゼズも彼にとっては路傍の石となってしまった。

 彼が踏切で拾った指は、暖かい部屋にそのまま置いておくとすぐに痛みだしてしまうのが予想できたので、彼はそれをラップに包んで冷凍庫に入れておいたのだった。しかし腐敗は食い止めたものの、指はなかなか凍らなかった。それはまるで、既に持ち主から切り離された指が「おれはまだ死にたくない」と声を上げ、自ら体温を発しているのかと思われるほどの凍結の遅さだった。だが男はそんな声を感じるたびにひどく残酷な、まるで自分自身が凍り付いて行くような気持ちになって、指を冷凍庫の奥へ奥へと押し込むのだった。

 表面はそれでもすぐに凍ったが、ためしに手にとってみると表面の氷はすぐに溶けてしまい、元の萎びた皮膚に戻ってしまった。中に残っていた骨の中まで凍りついたのはちょうど雪の降り始めた時間帯で、それまでの時間を累計してみると七十二時間以上かかっていた。一度凍ってしまうと、男が手のひらにしっかりと握ってみても、すぐに溶け出してしまうことはなかった。

 男は手の中で冷たい指の固さを確かめながら台所から白いまな板と包丁を持ってくると、狭いリビングの真ん中に置かれた小さいテーブルにそれらを乗せて、まな板の上にはラップにくるまれたままの凍った指を寝かせた。その後、ビジネスバッグのような形をした黒いソニー製のラジオをテーブルまで持ってきて電源を入れると、ちょうど放送されていた流行りのポップソングがノイズ混じりに響いてきた。雪で電波が不安定になっているのだろう。軽快なダンスビートに乗せて、加工されてこの世ならぬ音と化した若い女性の歌声が聞こえてくる。男はあまりその曲を知らなかったが、何となくそれを口ずさみつつ、首を左右に軽く振ってリズムを取りながら、指のラップを丁寧に外した。

 指は石膏細工のように真っ白だった。関節ではない部分にも関節と同じようにしわが寄り、一見してそれが指であるとは判断しにくかった。それがかつて誰かの手にくっついて血をもらいながら、前腕部の筋肉の収縮に従って動いていたとは想像しにくい。清潔な白いまな板の上に指を置くと、まな板と指との境目がほとんど曖昧に見えた。

 窓の外で、強風が朗々とした調子を吟じていた。大粒の雪はすでに横殴りになり、男の部屋のベランダまで雪を積もらせ始めている。

 暖房の効いた部屋でラップをゴミ箱に入れると、男は再び聞こえてくるポップソングを口ずさみながら、指を丁寧に輪切りにしていった。肉切り包丁を使っていたが、指はなかなか切れなかった。指の上へ刃をすべらせても刃は指に入っていかないので、男は包丁の刃元で押しつぶすようにして指を切っていった。切れた指は、どれも赤と白の混じり合った断面をしていた。爪は包丁の先を使って慎重に引き剥がすと、まな板の隅に置いておいた。

 男の手によって、指は全て桃太郎飴のように変形させられた。先ほどまで流れていた曲が終わり、ラジオからは騒がしいコマーシャルが流れている。

 ついに壊れてしまった。男は指だったものを見ながら、ふとそんなことを人ごとのように思った。

 その瞬間、指はとうとう発狂した。人体の一部であったはずのそれは、母体から切り離された後の絶え間ない冒涜と拷問によって、まったく新たな物体へと変化していた。指自身に視覚は無かったが、人間には無い特殊な、気配のようなものを察知し、己からも意図的に発生させることのできる器官を持っているように思われた。白痴のような純粋さで、男もその感覚をかすかに感じるほどはっきりと、人間には不可能な方法で、指は間違いなく男を見つめ返していたのだった。いきなり男は二度三度と大きく息を吐くと、落ち着かない様子でズボンのホックをはずし、おおきく反りかえった陰部をあらわにすると、自慰行為を始めた。

 白い指の美しさ、生前の柔らかさを想起させる冷凍状態。指の発する気配のような威圧感のような感覚。それを自分の手で崩していった背徳感は、男を興奮させた。二分と経たずに、目の裏が白み、その奥で弾けるような感覚が男の中でほとばしると、彼はまな板の上で輪切りにされた指の欠片に向けて雪のように白く濁った精液を散らしていた。

 指の断面に絡んだ精液は、その暖かさで凍った指の霜を少しだけ溶かした。精液の中に微量の血が浮かび、ストロベリー・パフェが等しく持つ層構造に似た紅白のマーブル模様を作った。男は深呼吸を繰り返して荒くなった息を整えると、新しいラップを取り出してきて精液と狂った指を一緒にくるみ、冷凍庫にもどした。

 一連の行為が終わったとき、彼は言いようのない幸福を感じていた。安物のグラスにハイボールを作ると、猛烈な勢いで降り積もる雪を眺めながら、味もろくに気にせずそれを飲み、美しく萎びた白い指に思いを馳せた。そうしている中で、通勤の途中によく見かける黒く長大なマフラーを巻いた女の柔らかくしなやかな指を思い出していた。

 降り始めた豪雪は止む気配が無かった。次の日もその次の日も降り続き、雪が降り始めて三日目の夜には、一メートル近い積雪となった。電車は運休し、道路にも雪が厚く積もっていた。車も自転車も通行は難しく、街の人々は徒歩で通勤しなければならなかった。これは異例の事態であると街の議員達は声を荒げ、除雪車の手配を急ぐように働きかけていたが、それは交通機関の麻痺を解消するためではなく、自分たちが家から買い物へ行くために、いちいち車の周りの雪を取り除かねばならないことが我慢ならなかったからである。でっぷりと太った議員達は豚小屋のように暖かい部屋の中にこもり、自分が家事をするのだと言い張って、外へ行く用事は全て妻と子供達に任せている。

 そうして能天気な寝顔をみせる父親をよそに、二階の部屋で娘がうずくまっていた。壁のフックには白黒チェックのリュックサックや、バッグに入ったバスケットボールなどがぶら下がり、部屋の真ん中に置かれた背の低いガラスの丸テーブルの上には、臙脂色の眼鏡拭きと編み物の解説書、その上に編んでいる途中の太長く赤いマフラーが放り出されている。

 頭を両手で押さえ、歯ぎしりし、ずれた大きな黒縁眼鏡の奥の充血した目には、大粒の涙が浮かんでいる。少女の頭は焼け付くように痛んでいた。角の根元の辺りから、じわじわと全体に広がっていき、脳の中を痛みが反響して、頭蓋骨を内側から太い針で突き破られるような感覚があった。助けを呼ぼうにも、頭痛によってひどい目眩と吐き気を催しており、声を発しただけで嘔吐してしまいそうで、その場でそれをこらえるので精一杯であった。

 まさかこれが偏頭痛というやつだろうかと彼女は一瞬考えたが、その時耳の上辺りの皮膚が破れる感覚がして、この激しい頭痛の原因に気づかされる。

 頬を伝う血を震える指で辿っていくと、生暖かく、表面がぬめりとした柔らかい突起に指が触れた。突起は頭皮を内側から突き破っていた。少女は瞬時に悟った。目から痛々しい涙が頬を伝って血と混ざり、白い芝生のようなカーペットに落ちていく。

 それは角だった。あの日からずっと少女が無い感覚を感じ、質感まで再現し、毎日のようにうっとりと空想を広げてきた角である。

 だが想像と再現によって彼女が求めていたのはあくまで想像上の角であって、むしろそれによって角の実在を否定していたのだと彼女は気がついた。

 しかし気がついたからといって、痛みは和らぐどころか、その様相を変化させつつあった。痛みの核となっていた部分が彼女の頭蓋骨の裏側を、頭頂部に向かって真っすぐ、じわじわと這い進んでいった。目眩と吐き気は限界に達し、少女は涙と唾液で顔を濡らしながらゴミ箱の中へ顔を突っ込もうとしたが、焦点がずれ、下あごをゴミ箱のふちにいやというほどぶつけながら、胃から逆流してくるものを堪えることができず、カーペットにその小さな薄桃色の唇から茶褐色のものがあふれ出した。

 必死に意識を保ち、やっとの思いでゴミ箱に口を当てた。そこへ吐き気の起こるままに嘔吐すると、どうにか吐き気はおさまった。バケツ大のゴミ箱は、半分近く嘔吐物で埋まった。しかし、目眩は依然としておさまらず、頭痛はついに頭頂部まで達した。

 その時、突起物が生えた部分から頭頂部にかけての数カ所で、何かが内側から膨れ上がり、頭皮を圧迫する感覚が起こった。

 少女は野うさぎのように充血した目を見開いた。震える口元に流れてきた血がゆっくりと入り込み、同時に口から唾液が一筋流れた。酸素を求める水槽の中の金魚のように彼女は口を動かしていたが、何の声もそこからは発せられなかった。反射的に、少女の両手は頭を触っていた。まるで自らの感覚を疑うように。

 少女の左側頭部は、十ほどの瘤状の突起によって歪に変形していた。頭皮は破られていないものの、一番大きい突起はすでに一センチ以上の高さがあった。

 皮膚の下から生まれ出ようとしている角の胎児達は、みな脈動していた。それぞれの角ごとに違う鼓動を繰り返しながら、角全体が水を入れたビニール袋のように奇形していく。角は少女を苗床としていながら、どれも少女と同じ鼓動を持っていなかった。両手で触ってそれを理解した少女は、いつかテレビで見たことのあるカタツムリの触角の中をぐねぐねと蠢く寄生虫を連想し、全身が総毛立った。

 少女は編みかけのマフラーを引っ掴み、角を覆い隠すようにして頭に強く巻き付けた。毛糸玉の中から糸がマフラーまで繋がっていたが、それを前歯で食いちぎり、口の中に残った繊維を躊躇無く飲み込んだ。編み目がほつれ、形が崩れたがそんなことを気にする暇もなく、頭皮を破る激痛が一つ二つと増えていった。少女は引きつけのようにしゃくり上げ、歯が震えぶつかりあう口から悲鳴のような音を垂れ流しながら、生まれたてのロバのようにぐらつく手を嘔吐物で湿ったカーペットに付けてどうにか体を支え、部屋の隅に置いてある姿見を見ないようにしながら四本足になって、窓の側までどうにか移動し、そこから冷たく透き通った景色を見た。

 そこに見えたのはここに生まれた時から日々変動していく都市の歴史の中で、最も静かな空気だった。一時間前まで降っていた雪の勢いは弱まり、雲のわずかな隙間から日光が射し込んでいる。彼女が住む家の目の前は公園になっているが、雪で遊ぶ子供の姿は見えない。雪が積もった家々の屋根に、雲間から射し込んだ陽光が降り注いで、ここ数日の異様な冷え込みで透き通りすぎた雪の結晶を漉かしていた。日中だというのに、歩道に人の姿は見えない。三毛猫が一匹、一分の隙間も無く凍り付いた道路の上で死んでいる。車の音も遥か遠くに聞こえるのみで、街に雪が溶ける音が響いて、それが冷たい雲の中を進んでいく太陽の音にも思えた。

 少女の顎に、マフラーの繊維をくぐって流れてきた血が一筋流れ、窓のサッシに落ちた。少女の頭を襲い続ける激痛は今や熱に近くなっていた。頭皮が灼熱し、熱に浮かされた頭蓋骨から角の胎児達へと熱が伝導し、体温を上昇させた角の脈動は早鐘のようであった。新たに二つ、角が頭皮を突き破った。一番最初にその姿を現した角は、既に五センチ近い長さに成長し、絶えず勃起と萎縮を繰り返していた。

 もはや一刻の猶予も無いことを少女は悟った。少女は頭巾のように結んだマフラーの端を食い千切らんばかりに固く噛み締めると、窓を開け放ち、血走った目から涙を流しながら窓のサッシに落ちた血を踏みつけると、膝に力を込め、冷たく湿った景色の中へ飛び込んだ。

 厚く積もった雪は、いつまでも溶けきることは無いのではないかと思われる冷たさであった。しかし整然と並ぶスーパーコンピューターをセメントで塗り固めたような大都市であっても、風化と変貌が微笑しながら訪れるように、街を塗りつぶした白い雪も、徐々に溶解量が降雪量を上回り始めた。

 雪で壊れた踏切は未だに修理されていないが、電車はまだ運行していないので、もともと線路があるはずの場所を、人がほんの数人、いそいそと歩いているのみである。時折、運送業者の四トントラックがタイヤに取り付けたチェーンを鳴らし、雪の上に白い轍を残しながら走っていく。

 それを横目で眺める黒いマフラーの女は、存在意義を失った踏切の前で立ち止まっている。耳にはカナル型のイヤホンが押し込まれており、そこからザ・バックホーンの新曲が流れていた。雪はちらちらと降っていたが、傘を差すほどではなかった。

 手には、真新しい薄茶色の手袋がはめられていた。もうポケットに手を突っ込む必要は無い。しかし彼女は祈ることもせずに、眉間にしわを寄せている。

 彼女の背後に、一人の男が歩み寄ってきていた。男は白いパーカーを着込み、白いスウェットに白いスニーカーを履いて、白いフードを目深にかぶったうえに白いマスクを着けていたので、遠目に見ると雪との判別が難しかった。

 彼はポケットの中で、精液とからめて凍らせた、薄く細かく分解されている指を握りしめた。今や指は銀貨のように固く、冷たく、安定していた。

 すみません。

 男は口を開いたが、声帯が震えることはなかった。何を緊張しているのだろうかと男はひとりで苦笑いを浮かべた。

「すみません」

 今度はしっかりと、こみあげた息が喉を震わせた。しかし、女は振り向かない。声が小さかっただろうかと思い、男はもう一度口を開く。

「すみません、少しいいですか」

 確かな声帯の振動を感じた。普段の音量と大差ないように男は感じたが、女はやはり振り返らない。男は首を傾げる。女のイヤホンはマフラーに隠れて、男の位置から見ることはできなかった。

「すみません!」

 男は声をはりあげた。しかし女は初めから無視を決めこんでいるのか、ぴくりとも動かず踏切の向こうを眺めている。もしかすると女は、このコンクリートのように重厚な寒さの中で、すでに凍死しているのではないかとさえ思われた。遠くないどこかで、屋根につもった雪がくずれ落ちる音がする。

 男はどこからかわき上がる灼熱のような怒りを感じていた。それは瞬く間に身体を駆け上り、脳まで達した。だが男は冷静になろうとして、ポケットの中でラップをはがし、指を三枚ほど手さぐりで取りだすと、それを力まかせに強く握りしめた。コイン状の指は硬く凍ったまま、萎びることもなく温度だけが上昇していった。そして深呼吸を二回繰り返すと、どうにか灼熱をしずめることができた。

 男はもう声をかけないことにした。女はきっと耳が遠いのだろうと自分を慰めるように結論づけ、直接彼女の肩を叩いてみることにした。

 手を女へ伸ばしながら一歩踏み出したとたん、凍った雪に足を取られてあやうく尻餅をつきそうになった。あわてて雪の地面に手をつくと、その拍子にポケットから指が転がり落ちた。それはひどくゆっくりとした瞬間だった。たるんだポケットから指と精液をラップに包んだものが重力にからめとられ、開いたラップを内側からさらに押し広げ、束縛から逃れた指たちは白い地面にぱらぱらと散らばった。女の足元まで転がっていったものもいくつかあった。

 男は膝をついて、大急ぎでそれを拾い集めたが、その慌てた気配にも女は意識が向かないようだった。雪面の冷気が男の膝に染みてくる。本来なら時刻は正午をすこし過ぎたばかりのはずであるが、気温はまるで上がっていない。おそらく零度にも達していないだろう。雪を暖めるためには溶かすしかないが、この温度では空気も雪の味方である。男の膝もほとんど湿り気を帯びない。

「すみません!」

 指をかき集め、元通りラップに包み直しながら、男は叫んでいた。マスク越しでも、はっきりと聞き取れるほどの音量。しかし女は振り向かないどころか、男の目の前で体重をかける足を変えてみせた。尻まで垂れさがった黒いマフラーが挑発するように揺れる。女は死んでいないし、足を動かすこともできるということが分かり、男は一気に頭へ血が上った。それは、女が男に対して、私は貴様を無視しているのだと知らせたようなものだった。

 だが男は理性を失ってはいなかった。指をラップに包む手をとめ、右手に握ることのできる限界まで指をつかみとり、それを自分の額に押しつけた。薄切りにされた指が、想定外の圧力に軋む。薄く切られて芯まで凍り付いた指が、男の頭へ冷気をおくる。その手助けを借りながら、女の動きは他意の無い、生理的なものなのだと自分に言い聞かせ、どうにか男は鎮まっていく。

 すると突然、女が動いた。鈍い衝撃音とともに。

 男が驚愕して顔を上げると、顔を背ける間もなく顔面に何かがぶつかり、同時に額に鋭い痛みが走った。女に衝突したものが跳ねかえってきたのだ。薄く硬く凍りついている指が、その勢いで男の額を切り裂いたのだ。指女はもといた場所からよろめくように数歩、前方に動いていた。

 男の目の前を、バスケットボールが転がっていった。

 女が後ろを振り向く。男も額から流れる血をそのままに、ボールが飛んできた方向へぽかんとした顔を向けた。手と顔の隙間から、指がぽろぽろとこぼれ落ちる。

 背の低い少女が、にやりと笑いを浮かべてそこに立っていた。黒いニット帽をかぶり、暗い茶色の髪の下には大きな黒縁眼鏡をかけ、黒いコートを着込み、黒いスカートに黒いストッキングを履き、膝の上まで届く黒いブーツを履いていた。そして首には、龍のように巨大で、血のように赤黒いマフラーが巻かれていた。

「お久しぶりでござんす」

 おどけた少女が口元を釣りあげて言った瞬間、赤いマフラーに半分近く隠れた顔が勢いよく後ろへのけぞった。何が起こったのか男が気づいたのは、女が少女にするどく放ったバスケットボールが少女の顔面へめりこみ、整った顔に薄紅のような打痕が浮かびあがりはじめてからだった。

「いつぞやの眼鏡じゃない、久しぶり」

 透きとおったような、くぐもったような声がする。黒いマフラー越しに聞こえるその声が、女の声だった。

「あら」

 女は視線を下に向ける。何も無い方向へ向かってひざまずいている、全身を白い服に包んだ男がそこにいた。顔は、パーカーのフードとマスクに隠れてよく見えない。

 女は耳からイヤホンを抜き取った。途端に、数メートル離れた少女にも聞こえるほどの音量で音楽が溢れだす。凄まじい大音量だ。男の気配に気づかないのも無理はなかった。雪に埋もれた音の無い都市において、音は一滴にも満たない、しかし濃厚な色の粒子となった。女が真っすぐに自分を見ていることに気がついた男は、あわてて立ち上がり、手の中に残っていた指をポケットに突っ込むと、愛想笑いを浮かべてフードを取った。

「すみません、どうも、はじめまして」

 女の目が驚いたように丸くなるのを見て、男は少し後悔した。男の顔は切れて血だらけである。額の傷は案外深いのか、血が止まらずに流れ出している。顰蹙を買ったのはまちがいない。だがもう声をかけてしまったので、顔の傷など気にしている余裕がないほどの重大な用件があるのだと女が解釈してくれることを祈った。

 幸い、女は逃げていくような素振りは見せなかった。雪の上に凛と佇みながら、男をまっすぐ見すえて言葉の続きを待っていた。背後では少女がボールを拾っている気配がする。

 男は口を開いた。

「あなたの指を、ぼくにいただけませんか」

 女は黙っている。少女も男も黙りこくって、静寂がおとずれた。雪が溶けていく音が聞こえる。男は女の足元に転がっている数枚の指が気になっていたのだが、ずっと女の目を正面から見つめ続けた。マフラーの上からのぞいている瞳が、瞼の奥でひるがえる。何もかもを透かし、真実を知っている冷酷な学者のような視線が男を貫いていた。

「どうして?」

 ようやく女が返事をする。男は先ほどまでいくら声をかけても返事をされなかった恨みも忘れて、すぐに、素直に答えた。

「通勤のとき、たまに目に入る、あなたの指が、とても美しくて、魅力的だったのです」

 話している最中、口に血が流れ込んできていたが、男の言葉は滞らなかった。女は笑いを堪えるようにうつむいていたが、やがてしゃがみ込むと、手袋を外し、足元にちらばっている指を拾いはじめた。

 それは、男はもちろん、その後ろでボールを持っている少女も思わず息をのむ光景だった。手袋の中から現れたあの手は、雪とともに溶けていってしまうのではないかと思われるほど青白かった。しなやかに伸びる指は細いながらふっくらとし、関節が曲げられて骨が皮膚の下で突っぱると、ぼんやりした白と桃色に染まった。きちんと整えられた爪は雪の明かりを受け止めて、太陽を包む雲のように光っていた。女が指を動かすたびに薬指の指輪が光り、女の指先が輪切りの指の赤に触れると、赤は氷から溶け出し、女の指先を少しずつ湿らせていった。

 女が散らばったままの指をすべて集め終わったとき、すでに最初につまみ上げた指などは柔らかく変化しており、崩れかけていた。少女は目を見開いてそれを凝視し、男は開いたままになっていた口から涎が一筋、雪に消えた。

「落としものですよ」

 女は無愛想にそう言うと、男の前に数枚の指を乗せた手のひらを差し出した。指の先端から、血で赤みがかった水がしたたり落ちる。それだけで、男には十分すぎる挑発だった。女がはっとした時にはもう遅く、男は右手で、指の輪切りがこぼれ落ちるのもかまわず女の手首を握りしめると、必死にズボンのポケットを探りはじめた。

 女は黙ってそれを見ていた。雪の冷たい香りを吸い込むと、全身が硬く、透き通っていくような感覚がした。手のひらの上で溶けていく指を転がしながら、男が折り畳みナイフをすばやく取り出し、片手でもたもたと刃を引っ張り出すのを街のような瞳で観察していた。

「一本だけ」

 誰かが静かに言うと、男は小さく頷いた。瞬間、女は手に乗っていた指を空いていた方の手でつかみ取り、それをまとめて男の顔の傷に投げつけた。と同時に、男の後頭部を飛んできたバスケットボールが打ち抜いた。すると衝撃と、額に走った痛みに男が動揺し、女の手首を握っていた手がゆるんだ。

「この!」

 すばやく男の手を振り切ると、踏切の向こう側へ駆け出しながら、女が叫んだ。少女はびくりと体を震わせ、女の方を見、歯を食いしばると、女と同じ方へ走り出した。

 男は走って女たちを追いかけようとしたが、女たちが雪道に適応したブーツを履いていたのに対して、男は雪靴ではなくスニーカーを履いていたために足元がおぼつかなかった。まるでこのライフラインの断たれた極東の都市が、女たちの手助けをしているように、男の踏む雪は滑り、二歩に一歩は足が空回りした。

 巨大な踏切の真ん中で、男はうつぶせに転倒した。白い地面に血潮が飛び散る。女たちはすでに踏切を渡り切ろうとしていた。男は必死で起き上がろうとしたとき、不意に、自らの影が雲の影に包まれ消えていく瞬間の、かすかな虚しさを感じた。自分がどこからやってきたのかを思い出すこともできず、車の轟音に包まれた街の中心でライフラインの断絶を知り、あと一日を生きるために、みっともなく右往左往する自分の姿が、高層ビルの分厚いガラスに映った瞬間のように。

 車の音が聞こえる。男は振り返る暇もなかった。雪に紛れ込むための白い服が、自分を消滅させるためのものだったと思い出した時、男は不気味にねじれながら、空を飛んでいた。

 鈍い音が、女たちにまで聞こえた。長距離トラックは男を弾き飛ばす瞬間も一切減速せず、そのまま男を残して去っていった。

 女は黒いマフラーを巻き直すと、指一本動かない男のそばへ歩いていった。男は首と腰が不自然な方向に曲がっている以外、ほとんど変化がなかった。血だらけの顔も、白い服も、汚れ一つついていないように見えた。

 少女を見やると、彼女は呆然とその場に立ちすくんでいた。少女は、頭にセメントを詰め込まれたような重苦しい感覚に襲われていた。見開かれた目には涙が溜まっているが、目尻からこぼれてはいない。

 女は男の着ていたパーカーのポケットを探ると、ラップに包まれた指を取り出した。手の中でそれを転がすうちに、指と精液はゆっくりと溶けていき、互いに崩れて絡みあった。女は色々な角度からそれを面白そうに眺めていたが、臭いを嗅ぐと、顔をしかめた。

 指をラップに包み直し、男のパーカーに押し込むと、女はズボンで手を拭きながら少女の方を向いた。少女も顔を上げると、女の顔を見た。その拍子に、目尻から何かがぽろりと頬をすべり落ちた。

「そんなものを被って、角は大丈夫なの?」

 女がニット帽を指差して聞く。少女はしばらく躊躇するように目を泳がせたが、とうとう決意したように口を開いた。

「角、死んだんです。私が殺しちゃった」

 女は目を見開いた。

 少女がゆっくりとニット帽を脱ぐ。そこには炭のように黒くひからびた突起が数個、生えているというよりもこびりついているといったような雰囲気で、側頭部にあった。

 あの日、少女が自室の窓から庭に飛び降りると、マフラーと厚く積もった新雪がクッションとなって、角と少女を受け止めた。そして角を頭ごと雪に突っ込み、少女の足が凍傷を引き起こすまでそのままでいると、角の動きもしだいににぶり、とうとう少女の頭部を破壊しようとしていた角を完全に停止させることができたのだった。

「角を殺しちゃった。ずっと欲しくて、やっと神様が授けてくれたのに、私が殺しちゃった」

 少女の虚ろな目からは、もう流れつくしていたのか、何も流れなかった。女は黙って、時折相づちをうちながら少女の話を聞いていたが、少女がそれっきり何も話さないのを見て取ると、静かに少女のマフラーに手を置いた。

「このマフラー……」響かない声。

 少女はじっと女を聞いていた。

「なんでもないわ」

 女はそういうと、お大事にとでもいうように手を肩のところでひらひらさせながら、返事も待たず、あらゆるものに背を向けて、雪に包まれた無関心の上を歩きはじめた。

 白い轍の他に何もない中絶の街を、影のような女だけが歩いていく。

 少女は戸惑ったが、もの言わぬ美しい指と、薬指をかこんで光る命のような指輪に雪の明るみが反射するのを見つけて、やはり十年後に、こんな大人になれたらいいなと心から思った。

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