散文 "カトレヤ/赤い旗のために"

 月光。鈴虫の声がきこえる。赤錆の浮いた鉄塔のあしもとに、火のついたままのマッチが捨てられている。まもなく、消えてしまうだろう。新月の夜。布のような雲が、太平洋をわたってゆく。船の甲板のうえに、背の低い少女と、骨になった母が横たわっている。時代錯誤だ、という言葉ばかりが、少女の口からあふれてくる。小さな、小さな、地震が続いている。

 昼の陰は、日に日に薄くなっていった。(先月から、姉は服直しの仕事をしている。だがしばらくは、そうと言われなければ分からない程度の仕事しかないだろう)欠伸をした姉の顔が、炎のように見える。それを、庭の羊歯の葉がかくしている。悲しげに、目もとがゆれている。いつまでも、ささやかな言い争いを恐れ、何度も言ったことのある言い訳をつぶやく彼女でいてほしい。それがたとえば、赤い包み紙から取りだした飴玉を、舌のうえで溶かしながらであっても。

 和太鼓の音が響いている。それは、ある種の説法である。すこしずつ、世界のかたちが明確に見えてくる。赤トンボの影が、ひび割れたアスファルトの上を、瞬く間にすべってゆく。何度も何度も、同じことが繰りかえされていたのだと、今になって疑いはじめたのだ。今日よりも、明日の爆薬のほうが罪深い。だが、信じてゆくほかない。

 わたしは昨日、夢のなかで、一匹の鴨が小さな便器に寝そべっているのを見た。いまも彼は、そこにいるのだろうか? 父の家には茶室があって、古ぼけた掛軸には、二匹の虎が大きく描かれている。父は、茶道などやったことがないはずなのに。日干し煉瓦づくりの家に憧れていて、日本家屋になど、まるで興味を持たなかったはずなのに、家を建てるときは、畳と囲炉裏をしつらえた茶室をつくるのだと言って、聞かなかったのだ。

 そうして、もう四年が経とうとしている。ふと、父の家へ、どうしても行かなければならないように思われた。その欲求は、自分でも理解しがたく、また、強烈だった。わたしは、身のまわりのものをほとんど売り払い、そのわずかな資金を持って部屋を出る。

 背のひくい街路樹に、リネンのハンカチがむすばれている。だれかの帰りを待っているのかもしれない。葉がみな落ち、寒々しい枝の上で、彼はきらきらと翻ってみせる。いつか、電線のうえで踊りたい……わたしがなにげなく息を吸いこみ、はきだす間に、六人の紳士が自動改札機を通りぬける。ひとりの顔も、わたしは覚えることができない。左から二番目の券売機には人がならんでおらず、それで切符を買おうとして彼と向かいあってみると、液晶画面には「調整中」と表示されている。

 わたしは、ひどく長い時間、そこに立ちつくしていた。影が、誰かの影が券売機を一瞬、覆いかくし、画面はしかし、変わらない光度でわたしの網膜を照らしつづけている。何度か、肩をゆすぶられて、わたしがなにをしているのかのぞこうとするひとがいるのだ、ということと、実家の真向かいに広がっていたレタス畑に、姉とともにかくれた、霧雨の日のことを、思慮している。

 レタスの表面は、びっしりと水滴に覆われている。畑の中央には赤い旗がたてられていて、それに触れると、レタス畑のおやじは、あまりそれにさわるんじゃない、と言う。レタス畑のおやじの名前を、わたしは聞いたことがない。彼は、街のあらゆる人に、レタス畑のおやじ、と呼ばれていた。レタス畑のおやじにとって、その杉の木の身体をもつ赤い旗は、父であり、母であり、それ以外のすべてのものでもあった。巨大な愛憎が、おやじと赤い旗のあいだに対流していた。母なんて、すべて消えてなくなってしまえばいい……時間は? 今はもう、午前十時をすぎているのだろうか。腕時計をみる。だが腕時計はどこにもない。手首には、青く細い筋がいくつも通っている。

 あの街はいまも、虚空とのにらみあいを続けている。想像のように、静かで、その内にせわしなさを秘めている。

 電車の発車ベルが鳴る。空調の音だけが、そこに和音をなしてゆく。車両には、わたしのほかに誰もいない。すくなくとも、わたしには、誰もいないように見える。しばらくは、森の中の線路をゆくのだ。一粒の大きなビー玉が、わたしの正面の座席に転がっている。ふと、以前にもこの座席に座ったことがあることを、わたしは思いだす。「お前、食い物の好き嫌いはだめなんだぜ、好き嫌いは」向かいの座席に座っていた初老の男は言った。大きな声ではなかったが、その声は車輪の音にも埋もれずに、わたしの鼓膜をしっかりと揺らしていた。

「出てきた食事を食わずに残すってのは、豚か鶏のやることだろう? 人間のやることじゃない……陸軍じゃ、まずそのことから、徹底的に教えこまれるんだぜ……お前、肉は好きか?」

 わたしは、生臭いので牛肉が苦手だった。

「肉をすこしでも残したり、落としたりしてみろ。樫のバットで、尻がぜんぶ黒ずむまで殴ってやる。それだけじゃあすまない。陸軍なら、ひとつひとつの食品に罰金が決められてる……米一粒三千円……味噌汁一さじ三千円……野菜一グラム一万円……納豆一粒五千円……てな具合に。牛肉なら、小指の先くらいも残してみろ。まるまる一年は、ただ働きが待ってるぜ……ところで、どうした。お前のそのカトレヤみたいな足の模様は……痣ならひどいもんだ……火傷ならなおさら……いや、おや、模様がないぞ……ああ、光の加減でそう見えただけだったらしいな……だが、実像よりも幻視のほうこそ『見えている』と表現すべき時代になったと、お前も思わないか?……もうすでに、幻の時代がやってきているんだと……あらゆる技術は視認のためにあり、視認できるものが存在だとするのなら、どうだ、幻視だって、お前と同じように存在しているんだぜ……お前の見たものを、何ひとつとして、忘れるわけにはいかない……わかるだろう? お前には何が見える?」

 わたしの右ふくらはぎには、掘り炬燵で火傷をしたときにできた花びらのような痕がくっきりと残っていた。男は口をかるく釣りあげながら、上着のポケットに手を突っこんで、三本の五寸釘を引っぱりだし、片手でもてあそびはじめた。轟々とうなる車両の中にいて、その釘同士がぶつかりあう音は、不自然に浮きあがって聞こえてきた。

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