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夏目漱石のことば「表面を作るという事は内部を改良する一種の方法である」の出典を探す

たしか最初はTwitterだったと思うのですが、「表面を作る者を世人は偽善者という。偽善者でも何でもよい。表面を作るという事は内部を改良する一種の方法である。」という言葉が、夏目漱石の名言として流れてきました。

筆者である僕は映像やデザインの分野の仕事を生業としているのですが、この言葉を見たときに、まさにデザインの本質ではないか! といたく感動しました。良いデザインは単なるラッピングやデコレーションにとどまらず、受け取った人の体験をも向上させる力があるのだ、まさにコンテンツ=内容の一部なのだ、さすが文豪となると言うことが違う……と感じいり、なんなら座右の銘として壁に貼っておこうとさえ思いました。

と、そこまで考えて、おそらく何かの本が出典であろうこの言葉が、どういう文脈で使われたのか調べたくなりました。「肥った豚よりも痩せたソクラテスになれ」ではありませんが、実は何かのとりちがえで、夏目漱石の言葉でもなんでもなかった、という可能性もあります。そう思い検索してみると……ネットで調べても名言まとめのコピペサイトがたくさんヒットするだけで、肝心の出典が出てきません。僕はさらに不安になり、なんとしても出典を確認すべく、レファレンスサービスを使うことにしました。

都立図書館のレファレンスサービスでは、東京都内在住・もしくは在勤在学者であればEメールでも依頼を受け付けてくれています。なんて便利……。
数日後に返信をいただきました。

夏目漱石の名言「表面を作る者を…」について、全集の索引などを調査しました。
お探しの言葉は、以下の資料に掲載が確認できました。
(中略)
資料1:『漱石全集 第28巻』夏目金之助著 岩波書店 1999.3 (R/J860/ナ6/301-28 1128811893)
資料2:『漱石全集 第15巻』夏目金之助著 岩波書店 1995.6 (J860/ナ6/301-15 1127704772)
資料3:『文学評論 上』改版 夏目漱石著 岩波書店 1985.9 (岩波文庫) (S/9302/307/1 1122166143)
資料4:『文学評論』夏目漱石著, 名著複刻全集編集委員会編 日本近代文学館 1975 (名著複刻漱石文学館) (J860/ナ6/2-7 1122016235)※春陽堂1909年刊の複製

あっさり見つけてくれました。さすがプロの司書さんは違いますね。

ありがたいことに一部の資料は国立国会図書館デジタルコレクションで公開されていました。さっそく読んでみたので、ちょっと長いですが引用します。
(※筆者が一部漢字を現代風に改変したり、句読点を追加したり、現代仮名遣いにしています)

野卑なること。Coarseという英語を日本の書生は普通ただ乱暴粗野な意味でとるが、英国でCoarseというと、おもに卑猥にわたる言動、ことに言語を指すのである。
             〈中略〉
また、ある婦人は好んで(英国人の)ジョンソン博士を招待した。その理由は自分の亭主やその朋友が自分の前では聞くにたえぬ猥褻な言語を弄するのだが、ジョンソンが来ると皆遠慮して丁寧にするからであったそうだ。もっともこんな習俗は現今の日本の状態に照らしてあまり不思議なことはない。
             〈中略〉
(英国人の)ウォルター・ベザントは宴会のときに、酒客が女郎杯のために祝盃をあげるという一事に大分驚いているが、そんなことは驚く価値のあることだかなんだか分からない、とにかく現今の英国人が驚くのだから、現今の英国人はそんな事はすまじき者と心得ているのだろう。してみると十八世紀と今世紀の間にはこの野卑という点において少なくとも表面上大変な相違がある。

これには大分原因があるであろう。元来ものの変化するには内部から変化するのと表面から内部へ食い込んで行くものとの二筋がある。表面を作る者を世人は偽善者と言う。偽善者でも何でもよい。表面を作るということは内部を改良する一種の方法である。
これは日常の実験でよく分かる。表面を作るということは、作りたくはないのだけれども、外部との厭迫(えんはく)のためにやむをえず体裁を作るのである。この制裁が百年も二百年も永く続くと、これが欠くべからずまた犯すべからざる形式となる。

『文学評論』夏目漱石(金之助)著 春陽堂 1909
<国立国会図書館請求記号:64-111>
p.142 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/871768/79

あれ……? なんか全然デザインとかそういうニュアンスじゃないですね。

そもそも「野卑なること」から始まる章の一節でした。随分想像と違います。日本の男性は女性の前で卑猥なことを言ったりするが、英国人はそんなことしないよ、という論調の話です。漱石の知人らしき女性が英国人を家に呼ぶのを好んでいたが、彼の前だと旦那さんや友人が粗野な言動をするのを遠慮するからなんだとか。

抜き書きだと文脈がとりづらいですが、 ここでいう「表面を作る」とは「体裁を取り繕う」とか「人目を気にして言動を慎む」というニュアンスのようです。外からの圧力に負けて体裁を繕うことをみんな偽善者というけれど、偽善者でもなんでもいいじゃないか。やらないより全然マシだよ、それを百年も続ければ本質になりえるよ、という話でしょうか。

僕はてっきり、物品の外面を設計することは機能の一部である、みたいなデザイン論かと勝手に勘違いしていましたが、どちらかというと社会性や品性の話であり、下品で粗野な言動は表面上だけでも抑えなさいよ! という漱石先生の苦言のようでありました。それはそれで納得できるのですが、座右の銘というわけにはいかないかなー…と若干がっかり。

しかし、直前の「元来ものの変化するには内部から変化するのと表面から内部へ食い込んで行くものとの二筋がある。」というのもなかなか含蓄があっていい言葉ですね。ガワから変える方法もある。というわけで、少なくともまるきりデマというわけではありませんし、スッキリはしました。僕と同じようにこの言葉が目に止まり、出典を調べたくなった人が出たときのために、このネットの片隅にその経緯を記しておこうと思います。

それにしても、図書館のレファレンスサービスは、ネットだけでは調べるのが難しいことをきちんと追ってくれてすごくありがたいです。最近、司書の待遇が悪く仕事を探すのが難しい、という話題をよく見かけますが、資料の検索は一種の専門技能なので一般人にはなかなか難しく、公共サービスで一次資料を探す窓口があるのはありがたいことであります。図書館にもきちんと予算が案配されて「知の拠点」として維持されることを願っております。

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