2024/5/21

午後二時四分。家の近くのミスタードーナツにいる。ここはいい。コーヒーやカフェオレがおかわり自由だし、かつ、大手チェーンならではの個人主義が蔓延っていて隣に座っている男が何時間そこで同じように過ごしているかを気にする人はいない。店員のシフトの交代を横目で見ながら、ああ彼らもお金のためにここにいるのだと思い出す。きっとお金がもらえないなら一秒たりともそこにいないだろう笑顔の人たちから食品を受け取って享受する。どの人もお金のために。お金をもらえなくても是非とも過ごしたいと思う時間を過ごすために、働く。嫌なこともする。僕はにわかに、人たちがその仕組みの中で生きていることにハッとさせられる。しかし、誰かがお金のために働かないと水も水道から出ないし電気も来ないしスーパーに食べ物も並ばない。だから他の人には頑張ってもらわなければならない。だけど、自分も? 自分もその中で生きている? いまさら一体何を? きっとこんなことをいちいち疑うのは多感な青少年かなんらかで拗らせた大人だけだ。きっと陳腐。しかし、あえて問う。お金のために人たちが自分に敬語を使い商品を届け、笑顔を浮かべ、奉仕する。彼らとまた別の文脈で出会えば自分が敬語を使い、商品を届け、笑顔を浮かべ、奉仕する。お金がもらえないならただちにすべてを放り出すような事を粛々と進める。

何かがぼんやりと違和感として目の前にあるのだけれど、未だ言葉がない。当たり前で、ありきたりで、形式的に空間の雰囲気のニーズに沿って、本やロックンローラーの叫びを真似て、口に出したこともあるような問いと似ているけれど、そうではない。きっとそういう心から真に出ていない限りの世の中の若者がうそぶくような疑問と、ある何らかの経験と時間を経て文字通り自らの生死に直結するような問いは本質的に何かが違う。違うと思いたいだけなのかもしれない。僕がここまで色々な気持ちを知って、色々な惨めさを知って、色々な華やかさを知って、色々な自己犠牲、他人の自己犠牲の享受、何かに勝利したという陶酔、人を踏みにじった偽善的な罪悪感、そっくりそのまま自らが踏みにじられる側に入れ替わって誰かに偽善的な罪悪感を感じられる立場になって、誤解し、誤解され、咎めず咎められず、中立を気取って正義の執行に日和見、あるいは誰かの中立ぶった体裁を暴く言葉を紡げず、人間本来の価値を謳いながらその実彼らの持っているものや立場で人に一目置いたりナメたり、あるいは自分だけは正しく自分自身の価値を見てもらえると慢心している、自分だけは何かが特別だと思えて仕方ないガキならではの全能感を卒業せず、何かを証明したと思ったらそんな必要なんて初めからなかったのだと思ったり、しかし人には求めたり、その果てに行き場を失ってミスタードーナツにいる人間が、思考を辞めて分かりやすい価値に飛びついて世界の事を何も知らないのに知った気になって、果たしてお金や立場を手に入れて、客観的な幸福像を手に入れて、問い質しても客観的なだけじゃないよ、私は本当に今幸福だよと言い、(しかし、思考を辞めて自分の本当の気持ちや本当にやりたかったこと、全くゼロベースで身の振り方を考えた時にそれを積極的に選ばない選択肢を選ぶことの心の痛み、真実を求めずあまつさえそれに蓋をして自他ともに欺く人間が、自らが本当に心から幸せを感じているかどうかでだけやけに明朗に断言することに僕は不信感を持つ)世界の偽りに加担する人間が、偽物だらけの世界で偽物の欲望に沿って喫茶しようと思ってミスタードーナツにいる人間と、事象としてそこにいること以外に一体何が似通っているだろうか。


そんなことを証明することも、人に是非ともそう思ってもらおうと気をつかうのも本当は必要のないことだ。自分だけが流されない気持ちとして持っておけるならば。しかし、認知的不協和は想像以上に思考の本質まで変性させてしまうからなかなか厄介だ。この文章はウンコだ。

札幌発の劇団Road of座のブログです。主に代表で役者の大橋が更新しています。サポートよろしくお願いします!