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失われた50年 その5

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ラビ・バトラ「JAPAN 繁栄への回帰」1996年3月6日 初版発行/総合法令出版
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実質賃金の伸びを制限した輸出拡大政策

第一次成長期からかけ離れていった政策のひとつに、政府の貿易均衡政策がある。 1967年までは、その額は少ないとはいえ、日本は貿易赤字に悩まされていた。ただしその貿易赤字は、高賃金の仕事を作り上げ、生産能力を高める 「投資型の貿易赤字」であった。これは1967年以降、輸出超過に転じて、1967年までの輸入超過を埋め合わせて行くことになったのである。

小さな貿易赤字があたりまえだったころ、政府の政策はそれをコントロールすることにあった。その政策自体が均衡貿易を目指すものだったのである。そして実際に貿易赤字が急激に拡大した場合にも、日本の中央銀行である日銀は金利を引き上げることによって資金供給を抑え、需要を抑えた。まずは貿易赤字の拡大を防ごうとしたのである。

このように、日本は1967年まで貿易赤字が続いたが、政策の方針はあくまで貿易赤字の削減であり、貿易の均衡を狙ったものであった。しかし1975年以降、政策は一変するのである。そこにいたるまでの過程を追ってみよう 。

1968年 から1972年にかけて、日本の貿易収支は黒字へと転換している。その後、石油価格の上昇が1975年までの貿易赤字を生み出していった。1975年から1995年の間をみると、1976年と1980年の二回だけ赤字になっただけで貿易収支はずっと黒字が続いていた。だから、1975年は、貿易の収支の方向 と政策の両面において分岐点になっている。

1967年以降の貿易黒字の拡大、特に対米黒字の拡大は、1970年までに国際問題にまで発展していった。なぜなら巨額のドルの流出を伴ったからである。ドルの日本国内への過剰の流入は、1ド ル=360円の固定相場制の維持をさらに困難にしていった。

貿易の均衡を目指すならば、円はもっと高く評価されるべきであったが、日本政府はこの政策に抵抗した。

それというのも、過去において外貨不足がいかに経済成長を阻害し、その結果高い金利を生み景気拡大を阻害するかを、日本の国全体が身に染みて味わっていたからである。

第二次大戦後、工業化によって国全体が完全に変貌し、完全な混乱と麻痺状態から製造産業の巨人と変わっていったのに、日本は依然として外部からのショックには弱いと信じ続けていたのである。1973年の石油ショックでも、他のどの国よりも日本は良く持ちこたえたのに、外部からのショックに弱いという信念はますます強く固められていった。このようにして輸出はどんな犠牲を払っても維持し増やさねばならない、という過去に身に染みた思いは日本人の心に深く植え付けられていった。この神話は今日の日本の政策にもあるといえる。1971年12月、アメリカの突き上げによって円は1ド ル=308円 になった。日本はアメリカが輸入関税の引き上げをちらつかせたために泣く泣くこの円の上昇を受け入れることになった。

しかしこの交換レートの変更をもってしても、上昇を続ける貿易黒字はアメリカの思ったような解決には至らなかった。

この後もアメリカの圧力は続き、遂には固定相場制を廃止し、変動相場制に移行していくことになる。1973年に円は再び上昇し、変動相場制は265円からスタートすることになる。その後の円は石油ショックによっていったん300円に戻る局面はあったが、それが300円をつけた最後となり、その後は 一貫して円高への道を辿ることになるのである。

1973年から1975年の間の経済危機によって日本の政策立案者は、自国の将来の経済成長は輸出にかかっていると確信するようになった。第一次成長期に行った国内需要の基盤拡大の代わりに、海外の需要に依存していったのである。 円の上昇が日本の輸出を脅かすとして、日銀は円高を防止するために定期的に外国為替市場への介入を行っていった。

貿易均衡政策という見地からいえば国際通貨の中で円は急騰する必要性があったが、日銀はそれを許さなかったのである。そしてこの日銀の政策は、実際にはインフレ問題を更に悪化させたのである。

円高が進めば、日本での海外からの製品価格は下落していく。もし円高が放置されていたならば、石油や原材料が物価の上昇を抑えるのにじゅうぶんなほど安くなっていたはずである。インフレが抑えられれば、経済の急成長は自動的に再開するはずであった。1970年代の投資比率は実際に高かったのである。投資比率が高ければ、後の成長は大きくなる。

しかし日本政府は、失業対策に赤字国債の発行と外為市場への介入を選んだ。その結果、1970年代の投資比率が上昇したにもかかわらず実質GDPの成長率は下落してしまったのである。

外国為替市場への介入は、図4で示しているとおり円高の進行を緩やかにしたにすぎなかった。しかし日本の政府や企業は、輸出にすっかり取りつかれてしまっており、春闘における賃上げ要求を抑えるよう労働組合を説得しようとした。これしか円高の中で、世界市場で他の企業との競争に打ち勝ち、輸出を拡大していける方法はないと思っていたようである。

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