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不健全なタイプ1の分析 その1

ドン・リチャード・リソ「性格のタイプ―自己発見のためのエニアグラム」春秋社 より
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■狭量な人
不健全なタイプ1は、客観的な事実によっても、他の人のより優れた論証によっても、自分が間違っていることを証明されることには、我慢ができな い。自分のいうこと、なすことすべてに自分は常に正しい、と彼らは完全に確信している。理想は実を結ばず、危険な「絶対なるもの」となってしまっており、不健全なタイプ1は、その「絶対なるもの」に関しては絶対に譲らない。

彼らの理想は厳格な教義であり、彼らは、そこから逸脱することはできな い。彼らは、あらゆるもの、あらゆる人を絶対――正と邪、善と悪、救われた者と地獄に落とされた者―― の光に照らして見る。中間地帯も、どっち つかずの領域も、例外が生じる可能性もない。彼らは、絶対的な完全さとの妥協を必要とするような状況を考えることを拒否する。彼らが見るところでは、不完全さは最小のものであっても、全体を台なしにするので、情容赦なく根絶しなければならない。しかし、絶対なるものに従って生きることは、必然的にそれに対応する自らの人間性の否定を伴う。高く登れば登るほど、彼らは、ますます遠くに人間性を置き去りにする。彼らは、人間性は愛するが、個々の人間は憎悪する人間嫌いとなる

完全主義の通常のタイプ1は、少なくともときどきは自分自身も批判の対象とし、完全さに到達できないときは罪悪感をおぼえるという点で、狭量な不健全なタイプ1との違いがある。このことは、自分自身を批判から除外する不健全なタイプ1には、当てはまらない。不健全なタイプ1は極度に独善的で、完全さについての最も厳格な理想を固守することが、その理想を実践しようとしまいと、自分を正当化させると感じる。(私は正しい。だから、私のいうこと、することは、すべて正しい。)

怒りは、彼らの最も顕著な、そしておそらく唯一の感情として残る。不健全なタイプ1は、悪事を働く者たちに正義を行うとき、個人的な感情をま ったくまじえていないと思いたがる。しかし、紛れもない復讐心の要素が彼らを つき動かし始めていても、彼らはそれを自分に対して認めることができないし、ましてなおさら、他人に対して認めることはない。彼らが自分に抱いている表象はあまりにも崇高なため、完全な動機にもとるものはどのようなものでも決して認めない

実際、彼らは他の人たちの信念や行為をま ったくがまんすることができず、自分に同意しない者は誰でも、不道徳で邪悪であると考える。不健全なタイプ1は憤慨して自分の見解を人に押しつけ、人は、もちろん彼らの定めた正しいことをするように、させられなければならない、と感じる。宗教、正義、真理――彼らの理想のどれか、またはすべて――は、自分の立場を強め、他の人たちには誤ったり、罪を犯していると感じさせるように行使される。しかし、そうするうちに不健全なタイプ1は、 皮肉なことに、奇妙な立場に自分を置いて、詭弁によってしか擁護できないような理論をもち出す

彼らは、ある村を救うためには爆撃によって消滅させてもよいと主張したりする。ある種族を自分たちの宗教に改宗させるためには、彼らは奴隷として売られてもよい。まだ生まれぬ胎児を守るため、おとなの命は奪われてよい。詭弁を使っていることに気づくことは、不健全なタイプ1を瞬時も妨げはしない。というのは、彼らは自分の行為が自分の表明した信念といかに大きく矛盾していようとも、自分の行為すべてを正当化することに熟達しているからである

しかし、不健全なタイプ1は、あまりにも強く他の人々に腹を立てるので、その怒りの不合理性は、彼ら自身すらも混乱させるが、もちろん、彼らはその怒っていることが正当であると感じる。そうであっても、彼らは、怒りが手に負えなくならないように、自制を強めようと努める。しかし、皮肉なことに、不健全なタイプ1は、今までにまして、その自制心を失っていく。彼らはあまりにも強くねじを巻かれているため、その巻きの強さ自体が避雷針として働いて、抑圧された感情が思いがけずほとばしり出る


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