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くれーむ

僕は今、京王線の桜上水駅を最寄り駅と呼ぶ家で一人暮らしをしている。

社会人時代は千葉で一人暮らしをしていたが、養成所に通うタイミングでこの家に引っ越して来た。

養成所が神保町にある為、乗り換えなしで神保町に行ける駅で探していたところ、何やら京王線の調子が良いらしいぞ!と噂を聞きつけ京王線を選んだ。

お家を探す際、不動産に行き希望の条件を伝えた。

駅から近くて、家賃5万以下でお願いします。

毎月払う家賃は出来るだけ安く抑えるのがマストだった。

家を紹介することがお仕事の不動産さんも5万以下という条件では結構厳しいものがあったみたいだ。

なんとか絞り出してもらい、1つの物件を紹介してもらった。
その日のうちに内見に行けることとなった。
駅から5分ほどのシンプルな1Kの部屋だった。部屋も6畳ほどあり最低限の荷物なら全然暮らせるサイズだった。充分すぎて即決でこの部屋に決めた。

"この物件は大家さんも住んでいますが大丈夫ですか?"
と確認された。

内見の時には気付かなかったが、大家さんも近くに住んでいるみたいだった。そういえば内見に行った時に隣に大きな家があった。隣に大家さんが住んでいるのなら、会った時に挨拶をして仲良くなり家賃を下げてもらえたら、みたいな作戦も考えた。

大家さんがいることは特に気にしていなかったので、大丈夫と伝え契約をすることになった。

契約から1週間後には入居できることとなった。

入居する日には、社会人を経験しているところを見せようと大家さんに菓子折りを持って行った。ここで菓子折りを渡せば、今後の家賃交渉にプラスになるだろうと思った。隣の家のインターホンを鳴らし大家さんが出てくるのを待った。

玄関から50歳代の女性の方が出てきた。
今日引っ越して来た者です、お世話になります。と挨拶をした。

すると、"ごめんなさい違います。大家さんは2階に住んでいる方ですよ!"と言われた。

僕が内見の時から大家さんが住んでいると思っていた隣の家は、全くの他人さんで、大家さんは僕の部屋の2階に住んでいるとのことだった。
なんなら契約した家は2階への階段がなく、一軒家の一室だけ賃貸になっている世にも珍しいタイプの賃貸を僕が契約していたことにその時気付いた。

その女性が大家さんとは違うと分かったが、なぜか引けずに、隣の家の方にも菓子折りを持って来ましたの顔で本来は大家さんに渡すはずだった菓子折りを隣の家に住んでいるマダムに渡してしまった。

渡すはずの交渉材料がなくなり、本物の大家さんには軽い挨拶だけで入居となった。

入居後、同じ屋根の下に住んでいるが、大家さんと顔を合わせることはほとんどなかった。

たまーに犬の散歩をしている大家さんを見かけるが、菓子折りを渡せなかった後ろめたさから大家さんの横を通り過ぎる際は毎回電話をしているフリをしてやり過ごしていた。

入居後、1年は何もなく平穏な日を過ごしていた。

ある日、同期2人を家に迎え入れ、お笑いライブの配信を見ることがあった。
バイト終わりの24時ごろから僕の家に集まり観ることになっていた。

エアコンをつけるには勿体無いと感じるぐらいの7月のことだった。
窓を開けて多少の風が入ってくる中、鑑賞会がスタートした。

窓を開けた状態だった為、夜中に笑い声が大家さんの元まで届いていたようだった。

翌日、管理会社から電話があった。

"昨晩はかなりどんちゃん騒ぎをされていたようですね。"と言われた。

どんちゃん騒ぎという言葉はこんなとき使うのかと思っていたら、"大家さんが怒ってますので気をつけてください。"と言われた。

夜中に窓を開けた状態で騒いでしまっていた。
さすがに申し訳ないことをしたと思った。

それから2週間後に別の同期が家に来た。
2週間前に注意されていることを伝え、あまり騒ぎすぎないようにと念を押した。

だが、この念押しが芸人の卵たちには逆効果だった。
騒ぐなよ!がフリと受け取っていた。

Fire Stickを使ってカラオケを始めた。
そんな機能があるんだと感心していた。
窓も閉めているし、前回ほど騒いでいないから大丈夫だろうとタカを括り、僕もカラオケ大会に参加した。

もちろん翌日管理会社からお叱りの電話をいただいた。

"このままでは契約の更新はしないと大家さんが言ってますよ。"と言われた。

2週間でこれは、さすがにさすがすぎた。
申し訳ねえすぎた。

もう、夜中に騒いで迷惑をかけるのはやめようと思った。

それから1ヶ月後に別の同期が家に来た。
あとは、お察しの通り。
管理会社も呆れていた。

こっちは一生、すみません。しか言えない。
ここで、すみませんに代わる言葉を知っていたら使っていたが、僕の語彙力ではすみませんしか言えなかった。

だが、今回は今までと違って、大家さんが直接乗り込んできた。そこで大家さんは優しい顔でこう言った。

"僕ももう歳でね、いつ何があるか分からないからさ、もしもの時に備えて新しく契約書にサインして欲しいんだよ。もし体調を崩してこの部屋を貸せなくなった時に君に迷惑をかけてしまうからね。だからそれにサインをして貰えるかな?"
と言われた。

大人の優しい嘘だった。

僕の騒音で迷惑していることを一言も言わず、自分の体調が悪くなって急に賃貸の契約で迷惑をかけたら申し訳ないからと言われた。

大家さんが毎日犬の散歩をしていることは知っている。
なんなら大家さんが元気すぎて、犬がなんとか大家さんのペースに付いて行ってるぐらいに大家さんが元気なことも知っている。
そんな大家さんに、もしものことがある訳ないじゃないかと思いつつ、その契約書にサインをした。

サインをした後に契約書のコピーをもらった。
契約書には大家から出て行けと言われたら異議を唱えず出ていくように書かれていた。

やばい、絶体絶命だ。
次、同期を家に呼んだら、僕は大家さんの一言で住居を失う。
そう思った。

優しそうな元気おじさん次第で僕は住居を失うことになった。

だが、契約書には異議を唱えず出て行ったら50万あげるよ!とも書かれていた。契約途中で急に出て行けと言ったら法律的な部分で大家さんが不利になるのだろう。だから、一応出て行ったら50万あげるよと書かれていた。

大家さんが50万を払ってでも僕を出て行かせたいと思ったら退去命令が下る。僕の騒音に50万の価値があるかがこの物語の焦点となった。

だが、50万が貰えるとなっても、次のアテがない僕からしたら退去命令が出ないことが1番助かる。

それからはクレームが来ないように細心の注意を払って生活をした。

入居から2年が経つ契約更新の時期に大家さんが部屋を訪ねてきた。

今回の更新で部屋貸しを辞めるから、申し訳ないが出て行ってくれと言われた。

このタイミングかあ!!くそぉ!大家め!!
ここ半年は大人しくしていたから更新できると思っていたが、このタイミングで大家が権力を行使してきた。

出ていくしかなくなった。だが、僕にも最終兵器である50万があった。

では、契約書通り50万てことですね?と聞いた。

どうせ出ていくなら、お金を貰うしかない。
馬鹿なフリをして図々しくお金をせびった。
そういう約束だったじゃん!!と50万をチラつかせた。

大家は、"あっ、君それ覚えてたの?"の表情を一瞬し、
そうだね。と言った。

そんなこんなで、僕は家を退去せざる負えなくなった。
だが、更新のタイミングで50万貰えるなら、全然プラスだなと思い、前向きに次の住居を探そうと思った。

翌日、また大家が訪ねて来た。

ごめんごめん、昨日出て行けって言ったけど、やっぱ大丈夫だわ!うん、別に住んでていいからさ、50万は渡さないよ!と、そんな感じのことを言われた。

大家も50万を渡すのは渋いみたいだった。
だから、更新のタイミングで僕が50万を請求してこなければ、騒音で迷惑してたし、50万を払わず退去してもらおうと考えていたみたいだ。
だが、僕が50万を請求して来たから、それは話がちょっと違うとなって、まだ居てもいいよとなった。

それからもう1年半住んでいる。

置き配をしたら、置き配をするなと文句の手紙を頂いたり、玄関先にゴミを置かれたり、自転車の鍵を取られ、タイヤの空気を抜かれたりしているが、今でも大家とは仲良く同じ屋根の下、暮らしている。

お互いに50万円を賭けて日々生活している。

50万を貰って出たい僕と、50万を払わず出したい大家との約2年にも及ぶ、"ぼくと大家さんの700日戦争"はまだまだ続きそうだ。

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