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ねぱーる

先日、社会人時代の先輩と会食をおこなった。
僕が退職してからはお会いしていなかったので、3年半ぶりのご対面だった。
久しぶりにお会いして、社会人時代の2年間を思い出した。

大学卒業後、僕は乃木坂に本社がある会社に入社した。
お給料が良く、土日祝日休み、残業少なめの、所謂ホワイトと呼ばれる会社だった。
いくつか内定をいただいている中でこの会社に決めた。
何よりの決め手は立地が乃木坂だったことだ。
つまり、ここで働けばアイドルと通勤の電車が一緒になる可能性しかない。
勿論、アイドルとお付き合いするシミュレーションは入社前に済ませていた。

新社会人には珍しくウキウキ気分で4月を迎えていた。
最初の1ヶ月はビジネスマナーなどの研修を行なった。
4月の終わりにそれぞれ配属される部署が言い渡されるとのことだった。
乃木坂で働けるなら、お茶汲みでも副社長でもなんでもいいと思っていた。

出向 船橋工場

千葉の工場に飛ばされた!!!

他の同期は全員本社勤務の中、1人だけ工場に飛ばされた。
大学をめっちゃ卒業したのに!!

詰んだ。
船橋にアイドルなんか居ないじゃん。
勿論ごねたが有無を言わさず飛ばされた。

そんなこんなで5月1日から船橋工場に行くことになった。
いきなりGWを潰される先制パンチもいただいた。
新社会人には珍しいウキウキ気分は、1ヶ月で消えていた。
五月病をしっかり5月1日から発動させた。

船橋の工場は日本人の社員が15人ほどで、残りはネパール、フィリピン、ベトナムなどから出稼ぎに来ている外国の方ばかりだった。
日本に来て25年が経つという、僕よりも日本歴が長い外国の方もいた。
工場勤務になって1週間しか経っていなかったが、日本語が上手いというだけで、外国人50人程の監督になっていた。
たった1週間で、その会社で10年近く働いている外国の方より上の立ち位置になった。

以前、僕にはネパール人だけ見分けられる謎特技があると書いたことがあったが、それはこの会社に入ってネパール人と接して習得したものだ。
なんとなく顔を見たら見分けがつくようになった。

この2年間は日本人よりネパール人と多く会話をしただろう。
・・・。
ごめん、それは話を盛った。流石に日本人のが多かった。

だが、自分でも驚きだが2年経って辞める頃には、ネパール人同士の会話もなんとなく聞き取れるようになっていた。
外国語は聞くだけで上達できる、を身をもって経験した。
でもどうせなら、ネパール語ではなく英語で経験したかった。
ネパール語は流石に使用先が限られる。

僕の出向先は魚商品の製造が専門の工場だ。
毎日毎日、焼き魚をアホほど製造していた。
自分1人の自炊さえままならない僕が毎日10万食の製造を指揮していた。

クソでかい焼成機と呼ばれる機械で毎日魚を焼いていた。
夏になると室温が50℃近くにもなっていた。
それでも外国人のパートさんたちは母国語で多少の文句は言いながらも一生懸命働いてくれていた。
時給1,000円前後のほぼ最低賃金で毎日毎日働いてくれていた。
母国に幼い子供を残して出稼ぎに来ているママさんが多くいた。
ママさんたちは仕事が終わると母国にいる子供達に毎日のようにテレビ電話をしていた。

僕は日本という恵まれた国に生まれたから、ほぼ不自由なく生活できている。
だがママさんたちは自分の国では多くを稼げないため、異国の地に出稼ぎに来るしかない。
ネパールは平均年収が36万円ほどだそうだ。
日本の最低賃金でも、ネパール換算だと十分な金額となる。
だから、子供を国に残し日本人がやりたがらないような仕事でも頑張ってくれていた。

そんな、ママさんたちの姿を見て僕は思った。
「よし、仕事辞めよう。」と
ママさんたちより頑張ろうとかではなく辞めようと思った。

ママさんたちは大事な家族を守るために、家族と離れ異国の地で頑張っている。
家族のために、が働く根源になっていた。
じゃあ、僕にとっての根源はなんだろうと思った。

アイドルと付き合いてえ!!

これしか無かった。
入社前から、初心はこれしか無かった。

こんな千葉の工場でアホほど魚を焼いててもアイドルに出会えない。
本社に戻ってお茶汲みができるのも何年後になるか分からない。
そうなると取れる選択肢は、僕がアイドルになってメンバー内恋愛をするか、芸人で売れるかのどちらかしか無かった。

歌に自信があればアイドルになっていたが、歌はまるっきりだ。
だから僕は芸人を選んだ。

ママさんたちには、夢がある。と伝え退職した。
寂しいけど夢のためならと送り出してくれた。

今でもママさんたちは僕の夢を応援してくれているだろう。
けど、ママさんたちごめんなあ、もう少しかかりそうだ。

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