vol.4 【柔道①】
柔道を始めたきっかけは、軽いいじめからだった。
親の転勤に伴い、小学1年生の1年間だけ福井県の嶺南地方に住んでいた私は、それまで住んでいた福井市の福井弁とは異なる関西訛りの嶺南言葉が身についてしまった。
小学2年生になり、もともと住んでいた福井市に戻ってきた私だったが、1年間いなかったブランクは、7年しか生きていない小学生にはとても大きく、友達はなかなかできない。また、太っていたため必然といじめの対象となり、それに関西訛りも相まって、クラスの1軍連中からは馬鹿にされ続けた。
大人しくいじめに耐えていればよかったのだが、負けん気だけは強く、喧嘩に応戦するも、ただ太っているだけで鈍臭い私は負け続ける。
講道館柔道6段、国体5回出場の父に、家に帰って学校で同級生に喧嘩で負けたと言えば、「お前は俺の子じゃない」「ちんこを切って女になれ」などボロクソに罵声を浴びせられ、さらに殴られる。
4月から6月まで負け続けた私は、ついに柔道を習いたいと親に相談した。ここからが本当の地獄の始まり…
学校で負けないように柔道を始めた小学校2年の7月。福井市にある柔道整復師会少年柔道教室で始めた私は、当時道場で大半を占めていた右組に。習った技は大外刈。
今思えば、柔道といっても低学年生は遊びの延長みたいなものだったと思う。やんちゃな子供たちが道場内を走り回り、数人の先生が遊ぶように子供の相手をしていた。
柔道を始めて約1か月が経った頃、とうとう私の父が初めて練習を見に来た。私の打込みを見た父は、道場の先生に対して組手を左組にするよう指示した。先ほどの書いたとおり、生徒の大半は右組であり、小学2年生にみんなと逆の左組を理解するのは難しい。
その上、自分より体の小さな女の子に投げられる。道場でも、家に帰っても「女に投げられるなんて」と殴られる。
初めて試合をしたのは、その年の秋ごろだったはず。丸岡町武道館で何チームか合同の練習会が行われた。
学年と体格を見て、ずらーっと紅白に道場も関係なく並べさせられて練習試合を行った。
試合の時期は曖昧だが、相手は覚えている。春江町柔道教室の長谷川くん。同い年の私より少し体の小さな子だった。
初めての試合に私は緊張し、簡単に投げられて負けた。
丸岡町は父の地元であり、祖父母や親戚も見に来てくれが、それなのに負けたことが許せなかったらしく、父はみんなの前で私を罵倒し、数発殴った。祖父母も道場の先生も止めてくれたが、またそれがムカついたらしく、それからしばらくは練習を見に来なかった。
小学2年の12月、初の公式戦となる平野杯。
岐阜メモリアルセンターで行われるこの大会には、中部地方の各県から多数のチームが参加。各学年男女、重・軽量級の階級別で行われる大規模な個人戦。
私は小学2年男子重量級にエントリーした。確か1、2回戦はどちらも岐阜県の選手と当たり、大外刈で一本勝ち。
3回戦で当たったのは、同じ福井県のチーム、三国町柔道教室の阿部くん。ちなみにこの三国町柔道教室は、県内では敵無しの超スパルタで知られる名門道場である。
阿部くんは同じような体格の左組。1、2回戦と大外刈で勝利している私は、迷うことなく大外刈を掛けたが返され技有、そのまま25秒抑え込まれ一本負けとなった。
初めて悔しくて泣いた。 気が付いたら道場の他の生徒は1、2回戦で負けており、3回戦まで進出していたのは私だけだった。他の生徒に3回戦まで進んだのを褒められたが悔しくて泣き続けた。
父からは「なんで大外刈しか掛けんのや」と怒られたが、今思えば大外刈しか習っていないので、大外刈しか掛けないのは当たり前だ。しかし、父は内心、道場内で1番勝ち残ったことが嬉しかったのだろう。帰りに当時学校で流行っていたベイブレードを買ってくれた。
これが柔道を始めた小学2年、8歳の話。現在31歳。まだ現役で柔道を続けているなんて、当時は想像もしてなかった。
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